高屋城址に設置されている案内板の内容を紹介します。
高屋城址
安閑陵(あんかんりょう)古墳を本丸として取りこみ、その南に東西350m、南北200mの二の丸、さらに南に東西250m、南北250mの三の丸を結合する構造である。この姥不動堂(うばふどうどう)の周辺一帯は二の丸の中心地域に推定されている。
文献や絵図等の資料から、高屋城の前身として古市城や誉田城の記載がみられるがよくわからない。高屋城として築城されるのは応仁の乱(1467~1477)の終結後、畠山義就(はたけやまよしなり)によるものと考えられる。
その後、畠山、三好(みよし)一族が約100年間にわたり拠点として戦国の争乱を繰り返したが、織田信長により平定され、落城した。羽曳野市