国分城に設置されている石碑に書かれた内容を紹介します。
舞鶴城跡
別名、国分御屋形跡(おやかたあと)、国分新城とも呼ばれている。
島津義久は、慶長九年(一六〇四)富隈城から移居し、慶長十六年七十九歳で死去するまで在城した。後に義久の三女の亀寿姫(かめじゅひめ)が寛永七年(一六三〇)死去するまでの二十年間をこの城で過ごした。
その後、この城の隣接地に地頭館(じとうかん)がおかれ、清水・襲山(現在の重久)・敷根の各地頭館と並んで、国分郷の政治と警備の中心として幕末に至っている。
舞鶴城は山城の南麓に造営され、平時は軍事・行政が執行されるが、戦時になると、城山(隼人城)に立籠もるという方法がとられた。築城の際、山麓一帯(現在の市街地)も城に合わせて区割りを行い、碁盤目のような整然とした町並みは現在の市街地の基盤となっている。国分市