26年にわたり飯野城主をつとめた島津義弘についての案内板の内容を紹介します。
城址碑のとなりにあります。
飯野城と島津義弘
島津義弘は、島津一五代貴久の男兄弟四人の次男として、天文四年(一五三五年)七月二三日薩摩の伊作城(日置郡吹上町)に生まれた。
少年期より、加世田の祖父 日新公の元に通い、文武の道を錬磨し、特に中国伝来の軍法の道を究(きわ)めた。天文二三年(一五五四年)、姶良(あいら)の岩剣城の戦いで初陣を飾った。義弘は貴久の命を受け、永祿七年(一五六四年)精兵六〇人を率(ひき)いて加世田をたち、一一月飯野城に入った。小田村の久藤城を修築し、新城を加えて加久藤城と改称し、広瀬夫人を置いた。
義弘は、飯野城に三〇歳から五六歳までの二六年間居城し、数々の合戦(木崎原の戦い、高城川合戦(高城合戦、耳川の戦い)、根白坂の戦いなど)に出陣した。元亀三年(一五七二年)五月四日、木崎原合戦で、義弘は伊東義祐の軍勢に大勝。
天正六年(一五七八年)、兄義久らと高城合戦(児湯郡 木城町)で豊後(ぶんご)の大友宗麟の大軍を破った。勢いに乗った島津軍は、肥後の相良義陽、肥前の竜造寺隆信らの軍を次々と破り、九州をほぼ制覇した。
天正一八年(一五九〇年)六月、義弘は栗野の松尾城に移った。
元和五年(一六一九年)七月二一日、義弘は加治木屋形で生涯を閉じた。
享年八五歳。法名、松齢自貞庵主えびの市教育委員会