穆佐城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
国指定史跡穆佐城跡(むかさじょうあと)
指定年月日 平成14年3月19日
穆佐城が歴史の舞台に登場するのは、今をさかのぼること約660年前の南北朝時代。大淀川が作り出した宮崎平野に位置する穆佐城は、足利尊氏(あしかがたかうじ)の所領(後に尊氏の妻赤橋氏の所領)となると、南北朝の動乱に激しく巻き込まれました。攻防を繰り広げたのが土持(つちもち)氏・伊東氏・肝付(きもつき)氏など。その中でも、日向国守護(しゅご)畠山直顕(ただあき)は、穆佐城を拠点として、遠くは大隅(おおすみ)国(現鹿児島県)までその勢力を広げました。
その後、南北朝時代が終わりを告げると、その攻防は島津氏と伊東氏との争いへと引き継がれていきました。応永10年(1403)に穆佐城入りした島津久豊(ひさとよ)(後の第8代島津家当主)は、穆佐と関係が深く、自身の墓(市指定史跡)をはじめ、息子(むすこ)忠国(ただくに)(後の第9代当主)の誕生杉(市指定天然記念物)など、数々の遺跡が残っています。
文安2年(1445)から約130年余の間、伊東氏による支配が続きますが、天正5年(1577)、再び島津氏の支配下に入ると、穆佐は去川関外(せきがい)四ケ郷の一つ、穆佐郷として幕末まで続きました。そして、数々の攻防を繰り広げた穆佐城も、17世紀初め、武士の麓(ふもと)への移住がはじまると、その役割を終え、歴史の舞台から姿を消しました。
穆佐城は、山の自然の地形を上手く利用した山城で、本丸・西の丸・新城(しんじょう)に分かれていたと言われ、現在でもよくその全容を留めています。一部発掘調査においても、14世紀から16世紀末の陶磁器などが出土しています。
このように、城跡として貴重な歴史的遺産である穆佐城跡を後世に残すため、今後、保存のための整備を実施し、歴史や環境を活かした公園づくりをめざしていきます。宮崎市教育委員会