矢掛茶臼山城に設置されている案内板の内容を紹介します。
茶臼山城址
天正三年(一五七五)毛利元清は備中一円を平定して猿掛(さるかけ)城へ入ったが民政充実のため天正一二年(一五八四)標高九六メートルの茶臼山へ移城した。そして慶長五年(一六〇〇)関が原の戦に西軍が敗れ、毛利氏が萩へ西帰するまで一六年間在城した城址である。その間には天正一五年(一五七八)の九州征伐に引き続いて征韓の役(えき)で三度往復の途次、豊臣秀吉が再三立寄った史実があり、また長府藩主毛利秀元との由縁(ゆえん)も深い。
更に築城史的にも中世の山城(やまじろ)から近世の平城(ひらじろ)に移る過渡期の升形(ますがた)をもった平山城(ひらやまじろ)の典型的な形式を遺(のこ)し周囲に壕(ほり)を巡(めぐ)らし、本丸、太鼓丸、二の丸、三の丸、小丸、的前(まとさき)と幾段にも曲輪(くるわ)や櫓を設け、鎮守(ちんじゅ)の段、爺(じい)が段、茶屋敷(ちゃやしき)、枯れずの井戸の遺構など、山陽道の要衝を扼した見事な城構えを今に遺す貴重な史跡なので、矢掛町合併三〇周年を記念し、「茶臼山文化の丘」として整備したものである。