鏡山城跡の本丸跡に立てられている案内板の内容を紹介します。
国史跡鏡山城跡
平成10年1月14日指定
南北朝から、戦国時代にかけて、この地域は「安芸国東西条(あきこくとうざいじょう)」と呼ばれ、山口の守護大名(しゅごだいみょう)大内氏の所領でした。大内氏は、九州博多を有して海外貿易に力を入れてました。
鏡山城は、大内氏が安芸国支配の拠点とし、あわせて瀬戸内海中央部を押さえる目的で築いたものです。大内氏は、鏡山城に「東西条代官」を置き重臣を任命していました。安芸国は、大内氏と海外貿易めぐって対立する細川氏との接点となっていたため、鏡山城をめぐって攻防が繰り返され、特に応仁の乱(おうにんのらん)では、主要な舞台の一つとして激しい戦いが行われました。戦国時代に入ると、出雲尼子氏が勢力を伸ばし、大永3(1523)年、鏡山城を攻め落とします。同5(1525)年、大内氏は鏡山城を奪い返しますが、その拠点は盆地西方の杣城(そまじょう)、槌山城(つちやまじょう)に移され、鏡山城はその役割を終えました。
城跡は、標高335mの山頂に位置する御殿場(ごてんば)と呼ばれる郭を中心に約300m四方に広がる大規模なもので、ダバ(段場力)とよばれる郭や堀切、畝状竪穴群(うねじょうたてぼりぐん)、石塁などからなり、中でも井戸跡は5ヶ所もあり多くの人が城内にいたことをうかがわせます。
平成10年1月14日、室町時代を代表する地域の拠点的な城跡として国史跡に指定されました。社団法人東広島市観光協会
縄張り図の拡大写真です。