有漢常山城跡に立てられた案内板の内容を紹介します。
高梁市指定史跡常山城跡(つねやまじょうあと)
常山城跡は、有漢町の茶堂(ちゃどう)地区と土居(どい)地区の境にあり、標高265mの山頂部にある山城です。
有漢川を隔てた正面には鎌倉時代の地頭秋庭(あきば)氏の居館・正尺屋敷(しょうしゃくやしき)があることから、本貫地を守衛する番手城とみられています。戦国時代には三村方の新山家住(にいやまいえずみ)が居城し、その後、肥田五兵衛(ひだごへえ)が居城したといわれています。
頂上部の平坦面は三段になっており、最上部が主郭(しゅかく)で、約2m下って二の壇(だん)、更に1m下って三の壇(だん)が造られています。主郭は東西16m、南北13mの長方形で、一部に土塁が残っています。二の壇は東西約23m、南北約30m、三の壇は幅の狭い所で6m、広い所で15mであり、二の壇・三の壇ともに、北西・北東・南東に張り出した形となっています。三の壇の南東には、二重の堀切(ほりきり)をみることができます。このほか北側の緩斜面に3つの壇が、東側の斜面に5つ以上の壇が確認されています。また南西側や北東側は急峻(きゅうしゅん)な地形になっていますが、連続した竪堀(たてぼり)が設けられており、守りを重視した構造になっていることがわかります。昭和50年5月1日指定 高梁市教育委員会
もうひとつあります。
有漢常山城址(うかんつねやまじょうし)
位置 上房郡有漢町大字有漢土居有漢常山城は、秋庭氏居館の南、有漢川を隔てた山頂(標高二六五メートル)にあった山城である。周囲の比高からすれば小山と表現した方が適切な山塊頂部には二段の帯郭を付設した単郭の構えがみられる。主郭は長方形で、南辺には幅狭く一直線に走る一文字土居を残している。西辺にも微高の土塁基部があるが、郭の四周を土塁が取り囲んでいたかどうか、現状からでは明らかではない。当城の北面と西面は峻険な地形で、南の後背部も急傾斜で下降し狭い鞍部へとつながっている。
鞍部の西側には深い谷筋が入り込み、鞍部は幅約五メートルの二重堀で切断され、後背部もなかなか堅固な構えをとっている。この城には天正年間(一五七三~九二)に新山玄蕃允家住が在城していたと松山城の『籠城記』に記されている。