百地丹波城(百地氏城)跡に立てられている案内板の内容を紹介します。
百地氏城跡(ももちししろあと)
百地氏は伊賀流の忍者、百地丹波守(たんばのかみ)が有名ですが、史実としてはほとんどわかっていません。しかし、天文十三年(一五四四)の史料に「喰代もも地殿」と見えることから、戦国時代には北伊賀地域の有力な土豪(どごう)として知られていたようです。
百地氏城跡に代表される土塁や堀で防御施設を設けた中世城館跡は、市内に二五〇ヶ所余りあります。その中でも喰代(ほおじろ)・蓮池(はすいけ)地区は、中世城館跡が数多く分布する地域で、周辺には安場氏(やすばし)館跡や奥氏(おくし)館跡・上山氏(うえやまし)館跡など十四ヶ所の中世城館跡が確認されています。
この城跡は丘陵の尾根を利用してつくられたもので、最も山寄りの郭(くるわ)から現在の青雲寺(せいうんじ)まで含めると、長さ二五〇m、幅は最も広い所で六〇mで、市内でも有数の規模となります。城跡の構造は、尾根を削平(さくへい)してつくった郭を連ねたように配置したもので、四つの郭(左図郭A~D)が段々に形成されています。この中で郭Cは七〇×四〇mと最も大きく、四方に土塁を築いているほか、南側に自然地形を利用した堀、東側には堀切があります。また周囲に郭Cを防御するための郭(左下図、郭Ⅰ~Ⅳ)を設けたり、進入路を屈曲させるなど防御の工夫を凝らしていることから、百地氏城跡の中心部分(主郭)と考えられます。
主郭を巡る土塁は北側・西側・東側の土塁の外側は崩れが著しく、工事により保護されていますが、内側はよく残り、当時の様子をうかがうことができます。南側の土塁は一部がなく、また他の土塁と比べて低いことから当時は塀(へい)があったのかもしれません。東側の土塁は主郭の中で最も高く、土塁の上が広くなっていることから、かつては見張り台のようなものがあったと考えられます。また主郭内には幅一m余りの溝があります。これは、当時郭内を区画した痕跡と考えられます。上野市・上野市教育委員会
周辺案内図もあります。