東日本で唯一の現存本丸御殿です。
家老詰所園側より。木の奥の建物は明治棟。手前の建物の内部は坊主当番詰で第2展示室となっています。中央に等間隔で整然と埋め込まれている丸瓦は、大廊下の柱の位置を示しています。以下は川越城本丸御殿パンフレットより。 大廊下 創建当初の家老詰所は広間西側から西に延びる大廊下の先にありました。庭に埋め込まれた瓦は、大廊下の柱の位置を示しています。
記録方詰所12畳の部屋です。
正面に大きな壁をもつ床の間が設えられた36畳の座敷です。 建具として入れられた杉戸は、藩の御用絵師舩津蘭山が描いたもので、当時は廊下の間仕切りに使われていました。
東日本で唯一の現存本丸御殿です。
巨大な唐破風屋根に間口3間の広い開口部と、8寸角の太い柱が、石高17万石の大名御殿にふさわしい威容を感じさせます。 (川越城本丸御殿パンフレットより)
中ノ門堀のしくみ 中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻(はば)まれて直進できません。進撃の歩(あゆ)みがゆるんだところに、城兵(じょうへい)が弓矢を射(い)かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。また、発掘調査では城の内側と外側で堀の法面勾配(のりめんこうばい)が異なることがわかりました。中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60° 西側は30°でした。つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。 明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一(ゆいいつ)の堀跡となりました。川越城の名残(なごり)をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成20・21年度に整備工事を行いました。
川越城と中ノ門堀 川越城は、長禄(ちょうろく)元年(1457)に扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝(もちとも)の家臣である太田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子によって築城されました。当時、持朝(もちとも)は、古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中(かちゅう)にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。天文(てんぶん)6年(1537)、小田原を本拠とする後北条(ごほうじょう)氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を磐石(ばんじゃく)なものとします。しかし、天正(てんしょう)18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩(しんぱん)・譜代(ふだい)の大名が藩主に任じられました。寛永(かんえい)16年(1639)に藩主となった松平信綱(のぶつな)は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭としての体裁(ていさい)を整えるにいたりました。中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が治(おさ)まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。 現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加谷(たがや)家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門(やぐらもん)で、屋根は入母屋(いりもや)、本瓦葺き1階部分は梁行(はりゆき)15尺2寸(4.605m)、桁行(けたゆき)30尺3寸1分(9.183m)ほどの規模でした。棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間(さま)を備えた土塀が巡っていました。 ※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ事業の補助を受けて実施しました。
門の奥に復元された堀跡があります。開園時間か午前9時~午後5時まで
川越城大手門跡(川越市役所)に川越築城の先駆である,太田道灌像があります。
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