二俣城
二俣城

[静岡県][遠江] 静岡県浜松市天竜区二俣町


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.38(--位)
  • 見学時間:44分(--位)
  • 攻城人数:786(210位)

二俣城の案内板

二俣城に設置された案内板の内容を紹介します。

浜松市指定史跡
二俣城址
二俣城の構造
 標高90mの台地上に築かれた二俣城は、北側から北曲輪(くるわ)・本丸・二之曲輪・蔵屋敷・南曲輪がほぼ一直線上に配置されている。天守台のある本丸の南・北にそれぞれ虎口(こぐち)を設け、北虎口は喰(く)い違い虎口である。本丸西側には小規模な天守台が残っており、石積みは野面積みである。本丸の南側には二之曲輪があり、枡形(ますがた)門跡がある。二之曲輪と蔵屋敷の間、そして蔵屋敷と南曲輪の間にはそれぞれ堀切(ほりきり)がある。

歴代二俣城主
 二俣には現在、城跡が三か所ある。この城山(しろやま)のすぐ南にある「鳥羽山城」、現在、市庁舎が建つ「笹岡城」、そしてこの城山の「二俣城」である。これらの三城はわずか2km程の距離内にあり、当時、この一体は「二俣郷」と呼ばれていた。このようなことから、当時の文書に「二俣城」と見えてもどの城を指すのか確定するのは難しい。
 ここでは、「笹岡城」を斯波・今川両氏の抗争期から永禄期(1500年前後〜1560年)までと考え、「二俣城・鳥羽山城」を徳川・武田両氏の抗争の場となった永禄期から元亀・天正・慶長初年(〜1600年前後)までと考え、文書を基に歴代二俣城主を紹介する。

二俣城をめぐる攻防
 永禄11年(1568)12月から天正3年(1575)12月までの7年間、二俣城は、徳川・武田両氏の攻防の舞台となった。二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、しかも、二俣は遠江の平野部と北遠の山間地方とを結ぶ交通路の結接点で、遠州平野の「扇の要」であったからである。

<元亀3年の攻防>
 元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、信濃を経て遠江に進入し二俣城を攻撃した。武田軍は力攻めの方法をとらず、城の水の手を断つ作戦を選んだ。徳川軍の城兵が崖に櫓(やぐら)を建て、釣瓶(つるべ)で天竜川から水を汲み上げているのを知り、上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。こうして2か月ほどで二俣城は陥落した。

<天正3年の攻防>
 天正3年(1575)5月、長篠の戦で勝利を得た徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂(びしゃもんどう)・蜷原(になはら)・渡ケ島に砦(とりで)を築き二俣城を包囲した。武田軍は7か月で兵糧(ひょうろう)が底をつき城を明け渡した。そして、二俣城には大久保忠世が入城し、徳川氏が関八州へ移封する天正18年(1590)まで在城した。
 この間大規模な修築がなされ、天守台を始めとする諸施設を構築したと考えられる。

徳川信康自刃事件
 大久保忠世が在城中に起こった事件として、有名なものに家康の嫡子(ちゃくし)信康自刃(じじん)事件がある。
 一般には、信康とその母築山(つきやま)御前が武田氏と通じていたことを理由に、織田信長が信康を切腹させるように家康に命じたとされている。
 家康はこれを受けて信康を天正7年(1579)9月15日、二俣城で切腹させた。この事件は戦国哀史として広く知られている。平成8年11月1日 浜松市教育委員会
   

この記事をいろんなキーワードで分類してみましょう。

この記事のURLとタイトルをコピーする
これからあなたが訪問するお城をライフワークとして記録していきませんか?(過去に訪問したお城も記録できます)新規登録(登録は無料です)

二俣城の城メモ一覧

あなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。

新規登録(登録は無料です)

フォローしませんか

攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)

今日のレビュー

猛将妄想録 1 (電撃ジャパンコミックス)

いまでも定期的に読み返す一冊。たまたま見かけたこの本のおかげで攻城団にマンガという武器が加わったと思うと感慨深いです。攻城団で発表した作品を収録した続刊も出版したいと思ってます。

こうの)

書籍ページを表示する

すべてのレビューを表示する

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する

トップへ
戻る