二俣城に設置された案内板の内容を紹介します。
浜松市指定史跡二俣城址
二俣城の構造
標高90mの台地上に築かれた二俣城は、北側から北曲輪(くるわ)・本丸・二之曲輪・蔵屋敷・南曲輪がほぼ一直線上に配置されている。天守台のある本丸の南・北にそれぞれ虎口(こぐち)を設け、北虎口は喰(く)い違い虎口である。本丸西側には小規模な天守台が残っており、石積みは野面積みである。本丸の南側には二之曲輪があり、枡形(ますがた)門跡がある。二之曲輪と蔵屋敷の間、そして蔵屋敷と南曲輪の間にはそれぞれ堀切(ほりきり)がある。
歴代二俣城主
二俣には現在、城跡が三か所ある。この城山(しろやま)のすぐ南にある「鳥羽山城」、現在、市庁舎が建つ「笹岡城」、そしてこの城山の「二俣城」である。これらの三城はわずか2km程の距離内にあり、当時、この一体は「二俣郷」と呼ばれていた。このようなことから、当時の文書に「二俣城」と見えてもどの城を指すのか確定するのは難しい。
ここでは、「笹岡城」を斯波・今川両氏の抗争期から永禄期(1500年前後〜1560年)までと考え、「二俣城・鳥羽山城」を徳川・武田両氏の抗争の場となった永禄期から元亀・天正・慶長初年(〜1600年前後)までと考え、文書を基に歴代二俣城主を紹介する。
二俣城をめぐる攻防
永禄11年(1568)12月から天正3年(1575)12月までの7年間、二俣城は、徳川・武田両氏の攻防の舞台となった。二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、しかも、二俣は遠江の平野部と北遠の山間地方とを結ぶ交通路の結接点で、遠州平野の「扇の要」であったからである。
<元亀3年の攻防>
元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、信濃を経て遠江に進入し二俣城を攻撃した。武田軍は力攻めの方法をとらず、城の水の手を断つ作戦を選んだ。徳川軍の城兵が崖に櫓(やぐら)を建て、釣瓶(つるべ)で天竜川から水を汲み上げているのを知り、上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。こうして2か月ほどで二俣城は陥落した。
<天正3年の攻防>
天正3年(1575)5月、長篠の戦で勝利を得た徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂(びしゃもんどう)・蜷原(になはら)・渡ケ島に砦(とりで)を築き二俣城を包囲した。武田軍は7か月で兵糧(ひょうろう)が底をつき城を明け渡した。そして、二俣城には大久保忠世が入城し、徳川氏が関八州へ移封する天正18年(1590)まで在城した。
この間大規模な修築がなされ、天守台を始めとする諸施設を構築したと考えられる。
徳川信康自刃事件
大久保忠世が在城中に起こった事件として、有名なものに家康の嫡子(ちゃくし)信康自刃(じじん)事件がある。
一般には、信康とその母築山(つきやま)御前が武田氏と通じていたことを理由に、織田信長が信康を切腹させるように家康に命じたとされている。
家康はこれを受けて信康を天正7年(1579)9月15日、二俣城で切腹させた。この事件は戦国哀史として広く知られている。平成8年11月1日 浜松市教育委員会