砺波市教育委員会によって作成された増山城跡ガイドブックです。
和田城の時代
増山城は、かつての「和田(わだ)城」とも考えられます。南北朝時代に書かれた「二宮円阿軍忠状(にのみやえんあぐんちゅうじょう)」には、元越中守護・桃井忠常(もものいただつね)らの討伐に従軍した二宮円阿が和田状を守ったとあります。森田柿園(しえん)は『越中志徴(えっちゅうしちょう)』で「和田城と云は、今云増山城なるべし」と推察しています。その根拠は、付近一帯が上和田村・中和田村・下和田村と称したとの言い伝えによるもの。ただし、縄張りなどから亀山城を和田城と見る研究者もいます。二宮は幕府に敵対した桃井忠常の討伐を命ぜられ和田合戦や庄城・野尻などを転戦し、貞治二年(一三六三)三月まで和田城を警護しています。群雄割拠と越中統一
その後、増山城は永正年間(一五〇四―二一)まで歴史から姿を消します。 越中守護畠山氏の守護代として、婦負・射水両郡に勢力をもった神保氏は、十五世紀後半頃に増山城を支城として整備し、郭配置の基礎を造成したと考えられます。神保氏の本拠である放生津(ほうじょうづ)城とは和田川で結ばれていました。
永正年間、越後守護代長尾能景(ながおよしかげ)(謙信の祖父)が一向一揆との芹谷(せりだに)の合戦で討ち死にし、その子・為景(ためかげ)が越中に侵攻するなど越中国は戦乱が続きます。
神保長職(じんぼながもと)は富山城を築城(一五四三)し、神保氏の支配は永禄年間(一五五八―七〇)まで続きました。上杉謙信(うえすぎけんしん)は増山城を三度攻撃しています。永禄三年、謙信は越中へ侵攻し長職を攻撃、富山城を放棄した長職は増山城へ逃れますが謙信の進軍によって再び落ちのびます。この時、謙信は書状で「増山之事、元来嶮難之地・・・」と記しており、増山城の堅固さがうかがえます。同五年、長職は再び増山城に立てこもりますが、謙信に攻められ、降伏しています。のちに一向一揆(いっこういっき)が拠りますが、天正四年(一五七六)に謙信に攻略されました。
謙信没後、織田勢は北陸への進撃を強め、一向一揆の拠点である金沢御堂(かなざわみどう)を撃破します。形勢不利になった上杉方は増山城を焼き、木舟城へ移りました。
天正十一年(一五八三)、越中平定を果たした佐々成政(さっさなりまさ)の支配下となり、城はもっとも整備拡充が図られたと考えられます。これは、砺波郡南部に一向一揆勢力が隠然としており、加えて小牧・長久手の戦いで織田信雄(おだのぶかつ)・徳川家康(とくがわいえやす)と結んで豊臣秀吉(とよとみひでよし)に敵対し、秀吉方の前田利家(まえだとしいえ)と加越国境で交戦するなど軍事的緊張が高まった事が要因となりました。乱世の終焉と廃城
しかし、城を整備した成政は、同十三年戦うことなく豊臣秀吉の軍門に降り、砺波郡は前田氏の支配下となりました。
増山城の守将は、前田氏の重臣である中川光重(なかがわみつしげ)(宗半)が務めました。最後の城主光重は不在期間が多く、実質的には妻の蕭(しょう)(利家の娘)が城を守りました。
慶長十年(一六〇五)に蕭が書いた「ますやま城より」との書状がありますが『越中国絵図』(南葵文庫)には「増山古城」とあるので、慶長年間には廃城になったと推定されます。