砺波市教育委員会によって作成された増山城跡の公式パンフレットです。
増山陣屋・砺波市埋蔵文化財センターで入手できます。
増山城跡の攻略11ポイント!
- 魚津市の松倉城、高岡市の守山城と並び「越中三大山城」に数えられる。
- 富山県に400以上ある城の中で、縄張りの規模はトップクラスを誇る。
- 増山城跡には亀山城、孫次山砦、赤坂山屋敷、団子地山屋敷によって城塁郡が作られている。
- 砺波、射水、婦負の三郡の境に位置し、砺波郡への最前線拠点として重要視された。
- 南北朝時代の1362年に和田城の名で歴史に登場し、慶長年間頃に廃城となるまで約250年の歴史がある。
- もっとも長く在城した神保氏が15世紀後半から重要な支城として整備し、その後、一向一揆、上杉氏、佐々氏、前田氏などが治めた。
- 上杉謙信に3たび攻められている。
- 縄張りは、和田川を天然の外堀とし、内まわり道の谷を空堀として利用し、中心部は二ノ丸を主郭として全方位に曲輪を配し、長大な堀切で遮断している。
- 城主(城代)が目まぐるしく変わり、その都度城の修築・改築が図られて現在の姿となった。
- 廃城後、加賀藩の「御林」となって杉の植林が行われ、富山県三代杉のひとつマスヤマスギが生まれた。
- 城下町は16世紀後半から形成されて栄えたが、廃城後、芹谷野用水開削とともに人々が移住し、廃れた。
歴史
初めて歴史に登場するのは、南北朝時代の14世紀。「二宮円阿(にのみやえな)軍忠状」には元越中守護・桃井直常(もものい ただつね)らの討伐に従軍した二宮円阿が「和田城」を守ったと記される。江戸時代の史学家森田柿園(しえん)は、『越中志徴(しちょう)』で「和田城と云は、今云増山城なるべし」と推察している。その根拠は、増山城の付近一帯が上和田村・中和田村・下和田村と称したとの言い伝え。ただし、和田城を増山城の前身とみる意見と、縄張りなどから亀山城をあてる意見があり、決着がついていない。
その後、越中守護畠山氏の守護代として、婦負・射水両郡に勢力をもった神保氏が長く支配する。十五世紀後半頃に増山城を支城として整備し、縄張りの基礎を作り上げたと考えられている。
永正年間、加賀に端を発した一向一揆が越中を席巻し、これに対抗した神保慶宗(よしむね)と 越後守護代長尾能景(よしかげ、謙信の祖父)の連合軍は、城下で行われた芹谷(せりだに)の合戦で敗れ、能景は討ち死にした。
神保氏を再興した長職(ながもと)は勢力拡大を図って新川郡に進出し、富山城を築城した。やがて新川郡の椎名氏を圧迫したので、新川郡の支配を任せていた長尾景虎(かげとら、のちの謙信)が長職を討つために越中に進軍。増山城に逃げた長職は景虎に包囲され、夜半に逃走し敗戦した。二年後、勢力を回復した長職は一向一揆の加勢を受けて新川郡に進出する。椎名氏を救援するため、上杉輝虎(てるとら、のちの謙信)は越中に出兵し、長職の立て籠もる増山城近辺に放火、長職を敗走に追い込んだ。
都合、上杉謙信は神保氏時代を含めて増山城を三度攻撃している。最後は天正四年、七尾城に攻め上がる途上で攻略している。謙信没後は、金沢御堂を撃破した織田勢によって攻められ、越中平定を果たした佐々成政の支配下となる。
成政のとき、城は整備拡充されたが、豊臣秀吉の軍門に降ったのち前田方の支配となり、前田利家の重臣、中川光重(みつしげ、巨海斎宗半(きょかいさいそうはん))が城を守った。光重は不在期間が長く、実質的には妻の蕭(しょう)が城を守ったと伝えられる。その後、蕭が没した慶長年間頃に廃城となったとみられる。城主(城代)の変遷
1351~ 桃井氏 1362~ 斯波氏 1467~ 神保氏 1568~ 神保長職 1572~ 反上杉勢(一向一揆) 1576~ 上杉氏(吉江宗信) 1581~ 織田氏 1583~ 佐々成政 1585~ 前田氏 1586~ 中川光重