岩槻城の解説やジオラマ、発掘品、城主の書状(複製)等豊富な展示物が入場無料で楽しめます。
写真中央手前の「茅小屋」のプレートの上辺りが「大手口」です。 上方右端が「新曲輪&鍛治曲輪」の城址公園です。 展示物が豊富で城址公園攻城前の訪問がお勧めです。
城外からの撮影です。 交差点信号から向こう側が城内です。 信号を左折すると、当時の堀の位置に道路が通っています。
一瞬閉園してるのかと思いましたが、右の石柱隣の門を開けて入れます。 分骨された道灌公の霊廟や銅像があります。 太田氏築城説と、成田氏築城説があるそうです。
父・資正と決別し、北条氏の傘下に入る道を選んだ岩槻城主です。墓地内には、供養塔である「太田氏資宝篋印塔」もあります。
弓を持って立っている像は、伊勢原市役所・川越市役所と同タイプです。 境内には、彼岸花が沢山咲いていました。
もう1つ像がありました。馬に乗った道灌公の像は初めて見ました。
1799年に創建された塾で、後に藩校となりました。 埼玉県内にて保存されている藩校としては唯一の貴重な遺構です。
デザインは岩槻城に関連する 上【黒門】 左【時の鐘】 右【八ツ橋】です。
住宅街の中にあります。 江戸時代後期には1日12回鳴っていたそうです。 鐘楼は1853年に改建されています。
写真右の電柱の横に石碑があります。 実際の大手口は、道路を写真上方に進むとS字カーブになっておりその先にありました。
岩槻城守護の軍神であり、城主や家臣の祈願所となっていたそうです。 創建は不明だが、築城時に鬼門避けとして建てられたと考えられるとの事です。
城址公園内の岩槻城址公民館の入口にあります。 城内のどの位置にあったかは不明です。 黒門の斜め向かいの案内板には、公園内の土塁・堀・門の位置も書き込まれ役立ちました。
新曲輪と鍛治曲輪間の堀です。岩槻城址公民館の東側です。 古地図を見ると当時は水堀だったみたいです。
岩槻城址公民館東側の堀の土塁です。(鍛治曲輪側から)
新曲輪から鍛治曲輪に入ってすぐ右側の空堀です。 写真右側の高土塁の奥が新曲輪です。 空堀を左に曲がると畝堀があります。
木橋両端に横たわっている石管のようなものが、畝堀の位置を表しています。 案内板には、発掘調査時の写真も載っています。
鍛治曲輪南側の空堀です。 約6m程の深さですが、当時より3m程埋まっているそうです。
「白鶴城」とは、築城を命じられた太田道灌が、沼で2羽の白鶴が木の枝を水面に落としその上に舞い降りたのを見て、大量の竹を束ね沼に埋め盛土をして築城したという太田氏築城説由来の別名です。
城内のどこにあったかは不明ですが裏門と伝わっています。 本柱にある墨書きから1770年に創られ1823年に修理された等、数少ない現存遺構の中でも建築年代が明確な貴重な物です。
史実かどうかは疑わしいですが、「槍がえしの門」と、呼ばれています。 そのエピソードとは、徳川将軍の日光社参の一行がこの門を通る際、屋根が低く槍を倒さないと通れなく「木戸門を壊せ」と主張する将軍側の槍頭と、「槍を返せ(倒せ)ばよい」と反論する岩槻藩主・永井伊豆守の間で揉めた末、槍を倒す(返す)ことを受け入れたとか。
豊臣軍に備えて城下町ごと約8㎞の土塁で囲んだそうです。 現在でも僅かではありますが残っています。
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