玖珠町教育委員会社会教育課文化財係によって作成された玖珠町のパンフレットです。角牟礼城跡、旧久留島氏庭園、森城下町が紹介されています。
角牟礼城跡(つのむれじょうあと)(国指定史跡)天険の山頂に築かれた高石垣
角埋(つのむれ)山頂に築かれた山城で、玖珠と豊前を結ぶ交通の要衝に位置していたため、大友氏から豊後の境目の城として重要視されていました。天正十五年の豊薩戦では落城しなかった要害堅固な城です。文禄三年からは毛利高政(もうりたかまさ)が玖珠の拠点として城を改修したと考えられ、二の丸・三の丸地区を中心に高石垣と枡形虎口(こぐち)等をつくり、近世城郭へと変貌させました。これにより、角牟礼城跡は中世山城から近世城郭が成立していく過程を一目で見られる貴重な城跡となりました。毛利氏転封後は、久留島氏が入部しましたが、二代通春(みちはる)の時に角牟礼城を廃城とし、以後は御止(おと)め山(やま)として管理しました。
旧久留島氏庭園(きゅうくるしましていえん)(国指定名勝)趣の違う三つの庭園を作り上げた八代藩主
旧久留島氏庭園は、八代藩主久留島通嘉(くるしまみちひろ)が三島宮(現末廣神社)造営時に作り上げた庭園です。末廣山(すえひろやま)の斜面と裾部を利用した御殿に接する藩主御殿庭園と末廣山の南端に建てられた栖鳳楼(せいほうろう)の周囲につくられた栖鳳楼庭園、末廣山西側の清水御門前の堀の一部を庭園化した清水御門御茶屋(しみずごもんおちゃやていえん)庭園の三つから構成されています。
これらの三つの庭園は、末廣山の高低差・地形・眺望を最大限に利用して配置され、園路によって有機的かつ効果的に繋がれています。
森城下町水軍のつくった山間の小さな城下町
森城下町は瀬戸内海の水軍だった来島(のち久留島)氏がつくった城下町です。
武家屋敷地は、角埋南麓の陣屋を取り囲むように配置されています。建物は木造平屋、寄棟造茅葺を基本とし、平面は鍵屋(かぎや)(曲屋)(まがりや)と呼ばれるL字状上で、座敷に面して庭園をつくっています。町家は、明治十六年の大火以後の建物ですが、町割りはほぼ江戸期のままです。敷地は間口が狭く奥行きが長い短冊状で、表通りに面して主屋を配し中庭を介して離屋又は蔵があります。また、この町は「竹瓦(たけがわら)」という特徴的な屋根材の景観を持っていました。