南島原市によって作成された原城跡を紹介したリーフレットです。
島原の乱 1637 - 1638
慶長18(1613)年、幕府のキリシタン禁教令により、キリシタンに対する弾圧は熾烈を極め、島原半島・天草地方の迫害は壮絶なもので、これに加え島原城築城に伴う過酷な労役・重税を領民に課した。また、数年にわたる天災による凶作も重なり、窮乏のどん底に追い込まれ耐えかねた天草・島原の農民たちが各地で一揆を起こした。寛永14(1637)年12月総大将天草四郎時貞のもとに、キリシタンの信仰を団結のよりどころにした天草・島原の農民が合流、廃城と化した原の古城に立て籠った。天草側からは、早崎瀬戸を渡り1万4千余人が、島原側では、ほとんどの領民2万3千余人と原の古城に合流し、一揆の数は総勢3万7千余人ともいわれた。幕府軍12万5千の軍勢相手に、一揆勢は約3カ月に攻防戦を繰り返したすえ、翌寛永15(1638)年2月28日、一揆勢3万7千余人・幕府側1万数千人の死傷者を出し、終わりを告げた。島原の乱は、老幼男女の関係なく籠城したものは皆殺しという日本史上で最も悲惨な出来事であり、この後鎖国体制の確立に至ったとまでいわれる大乱であった。その後、領民がいなくなった領内には、強制移民令が出され各地(豊後・薩摩・小豆島など)から多くの移民がおこなわれ、現在に至っている。