川上八幡神社の鳥居前を右に曲がると坂道の上に令和3年に復元された木製の大手門があります
国の史跡指定年月日:昭和63(1988)年5月17日 所在地:石狩市浜益区川下、柏木 指定面積:167,809.50㎡ ロシアの南下により北方の緊張が高まった安政6(1859)年、幕府は奥羽六藩に対して蝦夷地警備を命じた。荘内藩(山形)には西蝦夷地が割り当てられ、万年元(1860)年にハママシケ陣屋が設けられた。 陣屋内は山肌を削って平らな場所を作り、奉行長屋、神社、土蔵、湯屋などが建てられた。これらの造成された跡は現在でもはっきりと確認できる。また海からの水運のため「千両堀」と呼ばれる水路も開削された。 戊辰戦争の勃発により慶応4(1868)年には総引き揚げが始まり、9年に及ぶ庄内藩による陣屋経営は終了した。
ハママシケ元陣屋全体鳥観図です。
陣屋内の建物のうち兵糧蔵(御米蔵)、御元締長屋跡の案内板 さすがに建物の位置までは再現されておりません。 兵糧蔵は藩士用の食料を備蓄しており、開墾者用の食料とは別に扱われていた。 元締は勘定方とも呼ばれ会計を担当していた。
陣屋の中枢である奉行所の跡地を示す看板 「ハママシケ元陣屋」は庄内藩が管轄する西蝦夷地のルルモッペ(留萌)、トママイ(苫前)、テシホ(天塩)の各脇陣屋を統括する元陣屋で奉行長屋はその実務を担当する奉行人が在した。そのためこの陣屋内で唯一玄関が設けられた格式のある建物であった。
陣屋の中枢である奉行長屋の跡地
「郷夫」とは農民のことで、開墾のため荘内から入植した人たちを指す。 この長屋は「開墾方」と呼ばれる開墾担当藩士とその下で働く郷士のほか藩医、町医者、商人なども暮らす陣屋内では最大の建物であった。
大手門は土塁で虎口が形成されていますが、そこを過ぎると全体の案内板があります。藩士の住む長屋などがこの写真の手前側(明るい緑の草地)、奉行所などは奥の、現在は森になっている部分にありました。
3尺ほどの低い土塁ですが虎口を成しています
海岸から陣屋への水運のために作られた運河の跡。現在は用水路として活用されています。
陣屋の建設に際し、浜益川から陣屋のある山のふもとまで開削された運河。 荘内から送られた様々な物資、資材を堀の入り口(浜益川との合流地点)で小舟に積み替えて陣屋へ運搬した。この運河の建設に多額の費用を要したために「千両堀」と呼ばれている。
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