大河内馬之丞五輪塔
信長軍に敗れた北畠具親は毛利氏を頼って中国に落ち、その後伊予に移り菊間の池原通吉(河野本家通直の嗣となり河野家最後の当主)の援助で高田に住んだ。
具親は重茂山城主岡部十郎の妹を娶り馬之丞を生み、姓を大河内と改めた。
天正13年 (1585) の秀吉の四国征伐に大河内氏は重茂山城主の岡部、高田に協力したが、 小早川軍の攻撃に重茂山は落城、敗戦後大河内一族は姓を片上に、高田は山本に改めた。
秀吉は伊予平定の翌天正14年伊予国内で重要な城10ヶ所を残しあとはすべて破却させ、 片上、山本、 神野、 岡部らの拠城はすべて取り壊され、これらの各氏は帰農した。その後各氏共地方の庄屋に取り立てられ片上家は、山之内村、 野間村、波方村、樋口村、山本家は宮脇村、神野家は別府村、 宅間村の庄屋となっている。
大西町教育委員会
大河内馬之丞五輪塔 信長軍に敗れた北畠具親は毛利氏を頼って中国に落ち、その後伊予に移り菊間の池原通吉(河野本家通直の嗣となり河野家最後の当主)の援助で高田に住んだ。 具親は重茂山城主岡部十郎の妹を娶り馬之丞を生み、姓を大河内と改めた。 天正13年 (1585) の秀吉の四国征伐に大河内氏は重茂山城主の岡部、高田に協力したが、 小早川軍の攻撃に重茂山は落城、敗戦後大河内一族は姓を片上に、高田は山本に改めた。 秀吉は伊予平定の翌天正14年伊予国内で重要な城10ヶ所を残しあとはすべて破却させ、 片上、山本、 神野、 岡部らの拠城はすべて取り壊され、これらの各氏は帰農した。その後各氏共地方の庄屋に取り立てられ片上家は、山之内村、 野間村、波方村、樋口村、山本家は宮脇村、神野家は別府村、 宅間村の庄屋となっている。 大西町教育委員会
攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)
攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック
いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する