明治の廃藩置県当時に勤めていた杉浦晋という役人が後年書き留めたという図の複製や、支配下の村ごとの石高一覧表が掲示されている。そこまでは私にも理解できる。
右の色付けされた「菊間藩管内絵図」というのはどういうことなのか。水野家が江戸時代末期には上総・菊間藩に移封となったのは①の案内板に書いてあったので、そのことはわかります。
“移封”なら大浜陣屋一帯の領地は、水野家でない人が領主になるのでないのか。
“加増”なら西三河・大浜+上総・菊間になるのだろう。だとしてだ、この大浜一帯がなぜ遠く離れた菊間藩管内ってなるの?
三河はバラバラ。(そのおかげで一国一城に引っかからず、天守が複数残り得たのか)
明和6年(1769)から明治5年(1872)まで駿河沼津領主・水野家が西三河における領地を支配するために設置した役所。その変遷が記されている。 #水野忠清 #水野忠恒 #水野忠友 #水野忠成 #水野忠敬 #信濃 #駿河 #上総 #勝手掛老中
明治の廃藩置県当時に勤めていた杉浦晋という役人が後年書き留めたという図の複製や、支配下の村ごとの石高一覧表が掲示されている。そこまでは私にも理解できる。 右の色付けされた「菊間藩管内絵図」というのはどういうことなのか。水野家が江戸時代末期には上総・菊間藩に移封となったのは①の案内板に書いてあったので、そのことはわかります。 “移封”なら大浜陣屋一帯の領地は、水野家でない人が領主になるのでないのか。 “加増”なら西三河・大浜+上総・菊間になるのだろう。だとしてだ、この大浜一帯がなぜ遠く離れた菊間藩管内ってなるの? 三河はバラバラ。(そのおかげで一国一城に引っかからず、天守が複数残り得たのか)
これは特に説明どおり、疑問なし。
電柱に手作りの標識・案内板が。これも「大浜陣屋広場」なんですね。
陣屋の裏門。まあ模擬復元ですね。こちらには「陣屋址」と彫られた立派な石碑がある。表門の金属製の「大浜陣屋広場」と取り替えたほうがいいんじゃないかなぁ。
きっちり手入れされた芝生広場です。とても陣屋跡とは思えないほどに。トイレもさりげなく建てられて。
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