篠の丸城の本丸跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
篠ノ丸城址(ささのまるじょうし)
【所在地】宍粟市山崎町横須(しそうしやまさきちょうよこす)
赤松一族の西播磨守護代宇野氏は、宍粟郡広瀬(ひろせ)(山崎町中心部)に居館を置いた。その背後の山上に築かれた城が篠ノ丸城である。『赤松家播備作城記(あかまつけばんびさくじょうのき)』は、南北朝期に赤松貞範(さだのり)の長男顕範(あきのり)が初めて当城を築いたとする。
城は、北西から延びる山塊(さんかい)の東端(篠山、標高三二四メートル)に長方形の主郭(東西四〇メートル、南北五〇メートル)を置く。主郭は、南西側に土塁(どるい)と堀を備え、現状では南側の土塁中央が開口し「出入り口」となっている。
主郭西側の尾根上には南北両側を通路に取り囲まれた方形廓(ほうけいぐるわ)が連なり、尾根西端を三重の堀切(ほりきり)で遮断している。主郭から北側へも尾根上に二列の方形廓を段々に連ね、その東西両側に通路を設けている。
当城の最大の特徴は、北側の出入り口から西端三重堀切の間の傾斜の緩やかな北側斜面が、畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)で覆い尽くされていることである。竪堀群の上には横堀(よこぼり)、土塁、通路が対応して城の北西面の守りを固めており他に類例を見ない仕様となっている。このような竪堀群は本城の長水城には見られない一方で、篠ノ丸城では長水城のような石垣の使用は確認されていない。
戦国期には宇野政頼(まさより)の嫡男満景(みつかげ)が城主となったが、天正(てんしょう)二年(一五七四)、父子の不和から政頼は満景を廃嫡(はいちゃく)し殺害したと伝わる。その後、家臣の内海左兵衛(うつみさひょうえ)が城代となったが、天正八年(一五八〇)羽柴秀吉の攻撃により長水城と共に落城した。
黒田家の正史『黒田家譜(くろだかふ)』は宇野氏滅亡後に黒田官兵衛(くろだかんべえ)が「山崎の城」に居住したと記しており、これを篠ノ丸城にあてる説がある。確実な資料から官兵衛が宍粟を領有するのは、天正十二年(一五八四)七月のことで、同十五年(一五八七)七月に豊前(ぶぜん)へ移封(いふう)となるまでこの地を治めた。
なお、江戸前期に成立した『宍粟郡守令交代記(しそうぐんしゅれいこうたいき)』には、「役人・奉行、当地に居住といへり」とあり、平素は多忙な官兵衛にかわり代官が在城していたと考えられる。参考文献 兵庫県教育委員会編集 『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』ほか