月山日和城に設置されている案内板の内容を紹介します。
日和城
この城は、今から六五〇余年前、肝付兼重(きもつきかねしげ)が築いたもので、当時は兼重本城といわれました。兼重は、この城に、南朝方から受けた錦(にしき)の御旗(みはた)をひるがえし、北朝方の畠山軍と戦い、孤軍奮闘(こぐんふんとう)しましたが、延元四年(一三三九)八月、力つきて落城、兼重は高(こう)山へ退きました。その後は日向守護職の畠山忠顕(ただあき)のものとなり、高城とよばれ、月山日和城(がっさんひわじょう)ともいわれました。畠山氏のあと和田氏の居城となり、さらに島津氏の領となったが、明應四年(一四九五)伊東氏との飫肥(おび)・三股(みまた)の交換によって、伊東氏のものとなりました。
都城の北郷忠相(ほんごうただすけ)は、四七年の長い間かかって、やっと伊東氏を追いはらって、ここを居城としました。戦国時代の終りには、伊集院(いじゅういん)氏の領有となり、庄内の乱では、この城下で激戦がくりかえされました。
乱後はまた北郷氏のものとなりましたが、元和(げんな)元年(一六一五)一国一城の令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となりました。
南北朝の争乱から、戦国時代を経て、庄内の乱まで約ニ六〇年間、三股千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史をもつ、全国にも例の少ない山城です。
城の構(かま)えは、後方の台地から突出した要害の地に、空堀(からぼり)にしきられた八城郭(じょうかく)からなり、約四ヘクタールの広さです。
伊東八外城(とじょう)時代には、ここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大なかまえでした。
昭和一〇年の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここにお立ちになり、演習をご覧になりました。高城町 むらおこし実行委員会