南郷城
南郷城

[鹿児島県][薩摩] 鹿児島県日置市吹上町永吉都


  • 平均評価:★★★★☆ 3.67(--位)
  • 見学時間:45分(--位)
  • 攻城人数:25(2760位)

説明板

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ぴんぞう ぴんぞう
   

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カメラ情報

機種名Sony SO-52A
ISO250
F値1.7
ホワイトバランスオート
シャッタースピード1/60
レンズ焦点距離5.1 mm
フラッシュフラッシュ未発光、強制発光モード
露出モード自動露出
露出時間1/60
画像方向水平(標準)

文字起こし

日置市指定文化財 記念物(史跡)
南郷城跡(なんごうじょうあと)
 南郷(なんごう)(永吉(ながよし))城は、本丸「高城(たかじょう)」を中心に深い空堀に囲まれた7つの曲輪(くるわ)を持ち、南北500メートル・東西550メートルに及ぶ山城です。城名は、当地が島津荘寄郡日置南郷(しまづしょうよせごおりひおき(へき)なんごう)と呼ばれたことに由来します。鎌倉初期、紀姓伊集院(きせいいじゅういん)氏の一族で南郷郡司の桑波田(くわはた)(万楊房)覚弁(かくべん)が築き、同家が代々治めたとされます。南北朝期には、一時、薩摩国守護(さつまのくにしゅご)島津家領となり、この城をめぐって南北朝双方の争奪戦も起きました。
 この城は、島津家が戦国大名へ成長するきっかけとなる戦いのあった地でもあります。戦国時代の大永(たいえい)六年(1526)、南郷城主で守護島津家老中だった桑波田景元(観魚(かんぎょ))が田布施(たぶせ)(南さつま市金峰町)・伊作(いざく)(日置市吹上町)領主の島津忠良(ただよし)(伊作・相州家兼帯 日新斎(にっしんさい)(1492-1568)に服従。これを守護 島津勝久(かつひさ)(島津家14代忠兼(ただかね)1503-73)からも認められた忠良は、桑波田孫六(栄景(ひでかげ))を城主とします。この時、忠良の息子 貴久(たかひさ)(1514-71)は勝久の養子となり、島津家15代当主となりますが、これに同族の島津実久(さねひさ)(薩州家5代)が激しく反対し、忠良・貴久親子と争いになりました。
 天文(てんぶん)二年(1533)、孫六は、実久に味方し、忠良に背(そむ)きます。そこで忠良は、盲僧 寿長院了公(じゅちょういんりょうこう)に情報を探らせ、孫六が狩りに出た際に、猟師に扮(ふん)した忠良の家臣が孫六の帰城を装(よそお)って城内に侵入し、城を攻略しました。この時、城を守る桑波田河内守・同式部少輔らが討ち取られ、孫六は伊集院(同市伊集院町)に逃れました。麓の六地蔵塔(幢(とう))は、この敵味方双方の戦死者を供養するため、忠良が建てさせたとされます。
 その後、実久は、南郷城を取り返すため、兵を野首原(ノクンバイ)付近(同市日吉町吉利)に布陣(ふじん)させますが、忠良は50騎余りの兵を率い、南郷城を守っていた貴久やその弟 忠将(ただまさ)とはさみ討ちにして、これを撃破しました。この戦いで戦死した実久方の兵の武具などを埋めたと伝わるのが、吉利の鹿児島塚です。以降、忠良は、南郷の地名を「永吉」と改め、貴久とともに同家の勢力拡大の拠点としました。
■文化財指定 昭和四十年(1965)吹上町 平成十七年(2005)日置市 令和二年三月
日置市教育委員会

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