籾蔵への入口付近に西門があったようです。
城のある三熊山は海底の岩盤が隆起してできた山で城の石垣も現地のものを使用しているそうです。
曲輪には井戸があったり水が流れていたりしていました。 その水が入口付近にもしみだしていたので入りにくかったです。
1mくらいの石垣が斜面に沿って築かれています。 石垣の裏側は曲輪状のところもありました。
本丸に祀られています。
西登り石垣には週箇所曲輪が隣接していたようで。この瓦が落ちていた場所も少し広い平削地になっていました。
案内図の26番のところになります。 搦手道が西登り石垣の付属の曲輪を通る形になっています。
案内図の26番のところになります。 搦手道が西登り石垣の付属の曲輪を通る形になっています。
案内図の26番のところになります。 搦手道が西登り石垣の付属の曲輪を通る形になっています。
海岸側の登山道の入口にあります。ここから本丸まで700mだそうです。
東の丸の北東側から東登石垣の近くに行くことができます。
東の丸二段曲輪の石垣付近から下りれます。
東登石垣の頂部になります。自然の岩が出発点になっていました。
西の丸の西側、南側は長い石垣が綺麗に残っています。
南東側になります。
車で来るときはここを通るのでなるほど大手口なんだなと思いましたが、古絵図などでこの大手口は北側麓の居館や南側の街道に繋がる大手道が書き込まれておらず、何時何のために造られたのか謎なんだそうです。
西の丸・南側の石垣が東側に行くほど低くなり西の丸の東側入口付近では高低差がなくなりますので石垣をよじ登らなくても登山道に復帰できます。
洲本城は城のある三熊山の岩で造られているようですが、他の城より礫石の使用が目立ってました。
登城口から東側へ進む遊歩道は三熊山公園方面への遊歩道で、一旦車道に合流してから東一ノ門跡への階段を上がって城址に入るコースになっています。 こちらの遊歩道付近にも城址なのかわわからないのですが縄張図とかでは描かれていない石垣がちょこちょこあります。
この曲輪の下あたりから西側の登り石垣がはじまります。
上段の部分も大まかに2段に分かれています。写真は下の段から上の段の石垣や虎口の写真になります。
2017年11月29日まで武者溜には洲本特別地域気象観測所が建っていましたが移設され更地になっています。
駐車場から本丸への近道はこの虎口になります。
本丸の東側にある広い曲輪になります。現在修復中のようです。
文禄・慶長初期の石垣だそうです。ここにも立ち入りやすくなったようです。
本丸南側の虎口になります。
洲本城の本丸は多聞櫓で東側以外は囲まれていたようです。
西の丸への通路上には岩盤が剥き出しの場所ありました。そしてこの上に残念石が残っているので、この辺りは石切り場だったのかもしれません。
本丸北東隅には小天守が建っていました。 鬼門にあたるので石垣には欠きが見られます。
日本最古の模擬天守。これはこれで味が。
この区画は現在「洲本裁判所」になっています。 見えてる土橋と虎口は現代の改変のようです。
一段下の石が出っ張っているところが西登石垣のてっぺんになります。 洲本城の登石垣は綺麗な斜線ではなくて階段状のものです。(それも結構崩れてしまっています。)
石垣の角部ですが算木積みになっていないです。
西の丸や麓に通じています。
南の丸の先にある曲輪で土塁に囲まれています。
城の南端、大手口を抜けたところにあります。曲輪の大半が駐車場になっており現在はここまで車で上がれます。
平櫓が建っていたようです。
本丸の東側の広い曲輪です。脇坂安治(中務少輔)の母など一族の屋敷があったと推測されています。
天守台の上に天守台、独特な模擬天守です。
中務母義の郭の奥に見える森に東の丸があります。
小天守台あたりからの眺望になります。
小天守台から本丸の北側を覗き込んでみました。 石垣の前に巨岩が一つ飛び出していました。
小天守から大天守間の多聞櫓跡に続100名城の幟が翻っていました。
本丸の西側。現地の標柱には「武者走り台」とありますが、多聞櫓が建っていたという復元図もあります。
櫓門がここにはあったようです。
虎口の正面に鏡石が据えてあります。
正面は南の丸にある三熊梅園、右側を石垣沿いに尾根を進めば西の丸へ、右側の坂を下れば麓に下りることが可能です。もともとこの麓に下りる道が大手だったのではと考えられています。
こちらも真っすぐではなくすこし曲がっています。
尾根伝いに西にすすめば西の丸です。(案外距離あります)
籾蔵の北側(通路側)は石積です。
籾蔵の曲輪から
籾蔵の先に西門があったようです。
洲本城の城域内で唯一の残念石(石割りの途中)だそうです。
残念石は西の丸の手前にあるのですが、それでも本丸までこの距離です。
森の中で頂部しか見えていませんが、写真左へ下っている斜面に沿って登石垣が築かれています。
曲輪内は躑躅などが植樹されて公園化していますが、西側、南側は綺麗に石垣が残っています。
北側の石垣はあまり高くなかったです。
西の丸の西端北側に虎口があります。
西の丸の西側石垣はシノギ積みを何度か繰り返して半円形になっています。
西の丸の西側石垣はシノギ積みを何度か繰り返して半円形になっています。
西の丸・南側の石垣は数回折れを見せますが基本真っすぐ続いていました。(折れのある部分周辺で崩れているところが結構ありました。)
西の丸・南側の石垣は数回折れを見せますが基本真っすぐ続いていました。(折れのある部分周辺で崩れているところが結構ありました。)
土の城の面影もあります。
搦手口からの下り坂は脇坂時代は大手道だったという説もあります。 この坂を下っていけば西登石垣が見れますが、結構下ることになります。
搦手道を下って行くと突然石垣が出てきます。 この曲輪に入り奥に進むと西登り石垣の近くに行くことができます。
斜度がきつい所は階段状になっていました。
傾斜がある場所は階段状になっていました。
東登り石垣を見つけられないまま結局大浜まで降りてきてしまいました。
大浜公園側からの登山口です。 洲本八幡神社方面の入口からの方が西登り石垣を楽しめるかもしれません。
登城口から東側へ進む遊歩道は三熊山公園方面への遊歩道で、一旦車道に合流してから東一ノ門跡への階段を上がって城址に入るコースになっています。 こちらの遊歩道付近にも城址なのかわわからないのですが縄張図とかでは描かれていない石垣がちょこちょこあります。
登城口から東側へ進む遊歩道は三熊山公園方面への遊歩道で、一旦車道に合流してから東一ノ門跡への階段を上がって城址に入るコースになっています。 こちらの遊歩道付近にも城址なのかわわからないのですが縄張図とかでは描かれていない石垣がちょこちょこあります。
登城口から東側へ進む遊歩道は三熊山公園方面への遊歩道で、一旦車道に合流してから東一ノ門跡への階段を上がって城址に入るコースになっています。 こちらの遊歩道付近にも城址なのかわわからないのですが縄張図とかでは描かれていない石垣がちょこちょこあります。 こちらの写真の石垣の上は駐車場になっていました。
道路脇に東一ノ門へ上がる石段があります。
武者溜の南東側に位置しています。 山麓の居城からは大手門ではなくここの門から出入りしていたそうです。 (ちなみに大手門はどこに繋がっていたのか謎だそうです。)
武者溜の東端にして洲本城址の東端になります。
武者溜にあった洲本測候所の移転に伴い石垣周辺の伐採がしてあって石垣が綺麗に露出していました。
写真ではわかりづらいですが奥に東登石垣があります。 東登石垣には東の丸から近づけます。
階段状に積まれています。
上から
石垣の端に礎石が残っていました。
隅櫓跡から撮影。東の丸は曲輪が石垣で囲まれた上段と2段になっているので二段曲輪と呼ばれています。 写真は上段のさらに一番高い段で鷲之間と呼ばれていたようです。
西側の虎口になります。
八王子木戸付近から
1526年に安宅隠岐守治興が築城した時に蛇の神様を祀った八王子神社を勧進したそうで、この木戸を少し下りたところに八王子神社の祠があります。
八王子木戸から八王子神社までの間に十二支を祀った祠が立ち並んでいます。 八王子神社や十二支神社は本丸から鬼門にあたる場所になります。
湧き水を石垣を築いて池にしています。
下ノ城は現在裁判所や史料館、税務署などになっています。 写真の土橋と虎口は現代の改変のようです。
現在堀には3つの土橋が架かっていますが当時からあるものは真ん中の土橋で、虎口は左側に折れる桝形構造だったそうです。 現在、神戸地方検察庁洲本支部や拘置所が建っています。
麓の”下ノ城”跡に建つ「淡路文化資料館」前に城址碑があります。 山上に模擬天守が見えています。
櫓台から東登石垣へ南に続いていた石垣は無くなっているようです。
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