福島正則が荼毘(火葬)に付された場所です。
同じ場所に植えられた杉についての説明です。
一本杉の由来
ー福島正則公 荼毘(だび)の地ー
正則公は、元和(げんな)五年(一六一九)広島五十万石の大大名から髙井野四万五千石に転封(てんぽう)を命じられ、寛永元年(一六二四)七月十三日、堀之内館(やかた)(長野県史蹟福島正則屋敷跡)において、享年六十四歳で波乱の生涯を閉じた。
遺骸は、幕府検死役の到着が遅れるなか、家老津田四郎兵衛の計らいで、髙井野のこの地で荼毘(火葬)に付された。
領民はここに一本の杉を植え、公の遺徳を偲(しの)ぶよすがとした。歳月が流れ、若木は成長し、いつしか住民から“一本杉”という愛称で崇拝される巨樹となった。記録によると、「周囲三丈(じょう)(約九メートル)、高さ十丈(約三〇メートル)に達す」とあり、晴れた日には遠く戸隠からもその樹影が望まれたという。だが、昭和九年(一九三四)九月、室戸台風により倒伏。再植した杉が育っている。
伝承によると、樹の枝を切ったり折ったりすると血が吹き出てくるといわれ、先人、区民の誰もが限りなく愛し、慈しみ、守り伝えてきた巨樹であった。
平成十七年十一月
堀之内区
高山村教育委員会
本堂の中には、福島正則公肖像画が展示されていました。
高井寺(こうせいじ)の本堂内にありました。 戦時中は学童疎開の宿としても使われました。 模型は実際に学童疎開されていた方が作られたそうです。
復元された御判屋(高札場)の案内板です。
復元された御判屋(高札場)の内容です。
復元された御判屋(高札場)です。
福島正則が荼毘(火葬)に付された場所です。 途中には道案内があり迷わず行けました。
福島正則が荼毘(火葬)に付された場所です。 同じ場所に植えられた杉についての説明です。
福島正則が荼毘(火葬)に付された場所です。 供養塔が立ち、案内板が設置されています。
高井寺(こうせいじ)の境内にありました。 江戸幕府末期建立 高井鴻山書
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