北城山公民館の鳥瞰図
北城山公民館の鳥瞰図
西というより南になります。登っていったら案内図の登城道ではなく、いつの間にかに竪堀の中を進んでいました。
どっち?とりあえず坂を登る事にしました。 もしかしたら右側に行くと今回見逃した朝倉城の目玉の一つ、二重横堀とその間にある薄い土塁があったのかも
竪堀の中を進みます。傾斜はそれほどなかったです。
竪堀に沿ってあった土塁が途切れてその先には横堀がありました。 虎口的なところは石積のようでした。
一番下の横堀には数本の竪堀が上の段から刻まれています。
このあたり少し崩れていました。この先に登城道があったのですが合流できなさそうだったので引き返しました。
横堀の西端から引き返して竪堀をまた登ることに こちらからも虎口のような石積が確認できました。
二重堀切の山側です。
竹で見にくいですが綺麗な二重堀切です。(縄張図を見ると横堀が続いてるのかな)
南側二段目の空堀にある石積です。
石積のある部分は内側に方形に突き出していて、そこから西側は土塁・横堀と登城道が並走しています。
詰ノ段への登城道は三ノ段の縁を通って行きます。
三ノ段など主郭の曲輪は今は竹藪ですが廃城後は畑として使われていたらしく土塁の多くは失われているそうです。 この縁の高まりも土塁の跡なのか畔なのか
詰ノ段は堀切によって二つの曲輪に分かれています。 その堀切も幅広くて堀切と言われなければわからないです。
左側の竹藪が三ノ段です。
詰ノ段から撮影。左側がニノ段です。
詰ノ段にて
詰ノ段にて城址碑2本目
奥に土塁跡が見えます。東側の虎口はこちら側です。
詰ノ段は堀切によって二分されていますが、堀切と言ってもこの幅です。 言われないと気付かないほど広いです。
詰西ノ段はぐるっと石垣に囲まれています。
堀切から撮影。 詰西ノ段へは南東隅から登れました。
詰ノ段より広かったですが整備はされてなく下草ぼうぼうでした。 (草の種がズボンにつきまくり) 写真奥に西側の土塁が見えています。
西側の方が数十センチだけ高くなっていました。
西端には高い土塁が残っていました。
朝倉城は遺構は沢山残っているのですが整備は詰の段くらいしかできていないです。ここも竹藪
北西端には池の跡のような窪地がありました。
堀切から詰西ノ段南東隅にあがる虎口がありました。
堀の土塁には石積のあとも見受けられます。
西尾根と主郭部の間の堀切近くに池の跡のような大きな窪地がありました。
西尾根と主郭部の間の堀切近くに池の跡のような大きな窪地がありました。 その一部に石積みがありました。
西尾根には池跡の縁を通るのですが綺麗な石積がありました。 朝倉城は石積がよく残っているのですがこれが当時の物なのか、廃城後のものなのか判別し難いです。
西尾根には池跡の縁を通るのですが綺麗な石積がありました。 朝倉城は石積がよく残っているのですがこれが当時の物なのか、廃城後のものなのか判別し難いです。
堀切と西尾根との間には櫓台のような高台があります。
西側の出丸である茶臼ケ森への間の尾根は畑にや果樹園になっていました。
東側から撮影。 奥の林が茶臼ケ森です。手前の一段高いところにはブンタンが生ってました。
左側の斜面が茶臼ケ森の切岸で、その下にうっすら窪地があったので空堀跡なのかもしれません。 さらに右側奥には土塁がありその下にも空堀跡の窪地があります。
茶臼ケ森周辺の北側は土塁・堀切・横堀・竪堀と技巧的な遺構が結構残っています。
倒木で分かり難いですが堀切とその間に土橋があります。
うっすらの窪地ですが尾根の縁をずっと横堀が続いていました。
二重堀切の二段目(南側)になります。
一番端の堀切です。
尾根の北端は二重堀切で遮断されていました。
西側の出丸にあたる茶臼ケ森には金毘羅神社がまつられていました。
東側に階段がありました。
写真左が西尾根側の高台切岸、右側が主郭の切岸です。 奥の土塁は土橋になっていて裏側には竪堀が北斜面に続いています。
ここの土橋周辺は複雑な形状をしていて面白かったです。 竪堀は」字に掘られていました。
写真右側が土橋部分、左側にも出っ張りが残っており竪堀は¬字になっています。
集会所にあった案内板に書き込まれていた南側からの登城道だと思います。 帰りはこちらから帰りました。
登り道を下りてきたらこの場所に出てきました。 写真の奥方向へ進んだところ無事もどれました。
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