主郭の土塁(石垣)上に建っています。
写真中央の山頂が備中福山城です。左側、電信柱がかぶってしまっていますが一段下がって尾根が平に見えているところが幸山城です。
和霊神社の駐車場を利用しました。
備中福山城への登山口は少し手前にあります。
備中福山城まで650m、幸山城まで1150mだそうです。
備中福山城まで650m、幸山城まで1150mだそうです。
主郭に入るかなり前にありました。(道がコンクリートのところ)
備中福山城には太平記関係の碑がいっぱい建っています。
福山城主郭の北側になります。 奥に門跡と土塁・石列が見えます。
主郭の土塁(石垣)上に建っています。
主郭の中央部です。
一の壇と二の壇の間の土塁跡です。
二の壇の井戸跡です。
写真を撮っている場所から真っすぐ奥へが土塁跡です。 案内板は土塁の下に立ってます。
備中福山城もそうですが岡山県は南朝側の史跡が多いのでけっこうこの手の石碑が明治から昭和にかけて建てられ整備され、平成に忘れされれているところが多かったりします。
大井田氏経は南北朝時代、新田義貞一族の武将で九州から上京してきた足利軍を福山城で迎え撃った人物です。福山城落城後も各地にに南朝側として転戦しました。
二の壇にある神社跡です。碑には「忠霊殿駒犬献主大井田滿」とあるので大井田氏経を祀った社があったのだと思います。
山頂の主郭部だけのものです。
左「延元元年古戦場福山城阯」 中央「福山合戦忠重之碑」 右「贈従四位大井田氏經卿表忠之碑」
こちらは二の壇と三の壇の間の土塁跡になります。
題額は岡山県出身の宇垣一成陸軍大将のものです。 内容は福山合戦についてです。
三の壇と二の壇の間のものです。
三の壇の南側に広がっています。 福山城はもともと福山寺を利用した城だったそうです。
三因古墳群、清音駅方面へ下りる道です。 使いませんでしたがひたすら真っすぐ階段(1234段)が続くそうです。
奥の山頂に鬼ノ城が見えます。
備中国分寺の五重塔が見えました。
東側は備中国分寺、造山古墳、備中高松城などが見えます。
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おそらく、八王子城の解説本の中で最も重要な一冊でしょう。
八王子城跡が現在のように整備されたのは、落城400年にあたる1990年以降のことです。本書の出版も同時期で、出版後に発見された遺構もあれば、今は目にすることのできない遺構も多数あります。言い換えると、1990年当時の八王子城跡の姿を記録した書であるとも言えます。八王子城に興味を持ってくださった方にはお薦めの一冊です。すでに廃刊となっていますので、古書店か図書館で探してください。
トンネル工事や台風・地震などにより、現在は失われてしまった石垣などの貴重な写真も多数掲載されていますが、白黒で小さいため分かり辛いのが残念。
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