大和宰相

大和宰相(やまとさいしょう)さん 家老   フォロー

「次世代に遺したい文化財・景観を如何に遺すか、如何に伝えるか」をテーマに活動。地元の教育委員会(当時)の方に推薦いただき城郭研究者の勉強会に参加。城郭などの文化財とその周囲の景観保護と新エネルギー(風車など)施設の共存及び環境に優しい交通機関である路面電車の利用促進という関連で取材。

大和宰相さんのタイムライン

大和宰相

大和宰相さん が  姫路城(兵庫県姫路市) を攻城しました(2023-10-29)

大和宰相

大和宰相さん が  松江城(島根県松江市) の写真をアップしました(2023-10-15)

松江城天守を南西側から望む
松江城天守を南西側から望む

普請の名手と言われた堀尾吉晴が心血を注いで築城した松江城天守を南西側から望む。

大和宰相

大和宰相さん が  松江城(島根県松江市) の写真をアップしました(2023-10-15)

大手口に設けられた馬溜の中から二の丸太鼓櫓を望む
大手口に設けられた馬溜の中から二の丸太鼓櫓を望む

一辺が46mの馬溜が敵軍からの防御の際には、写真正面の二の丸や右側にあった大手門からの攻撃により敵軍の勢いを削ぐ働きを持った。また、城兵の反撃の際には待機場所となった。

大和宰相

大和宰相さん が  松江城(島根県松江市) の写真をアップしました(2023-10-15)

大手口に設けられた馬溜の案内板
大手口に設けられた馬溜の案内板

この馬溜は、大手口から侵入する敵軍に城方が大手門と二の丸上段の櫓から攻撃できる一辺が46mある桝形となる。

大和宰相

大和宰相さん が  備中松山城(岡山県高梁市) の写真をアップしました(2023-10-10)

大手門跡へと続く階段とバックの石塁
大手門跡へと続く階段とバックの石塁

備中松山城の攻城の困難さを物語る石垣

大和宰相

大和宰相さん が  備中松山城(岡山県高梁市) の写真をアップしました(2023-10-10)

天守から本丸、二の丸を見る
天守から本丸、二の丸を見る

天守櫓から見た本丸、二の丸。

大和宰相

大和宰相さん が  備中松山城(岡山県高梁市) の写真をアップしました(2023-10-10)

天守櫓と五の平櫓、六の平櫓
天守櫓と五の平櫓、六の平櫓

二の丸から本丸櫓群を望む。

大和宰相

大和宰相さん が 書籍秀吉の接待: 毛利輝元上洛日記を読み解く (読みなおす日本史)」にレビューを投稿しました(2023-09-30)

「秀吉の接待―毛利輝元上洛日記を読み解く」 は、大河ドラマ「どうする家康」の現在の時代は1582年(天正10年)本能寺の変から家康上洛から北条氏を降し天下統一を遂げる頃ですが、毛利輝元の上洛は、1588年(天正16年)7月から9月にかけてです。本書は、初めて上洛した輝元の家臣平佐就言(ひらさなりこと)が近侍としての見聞や主君に確認しつつ書き止めていたであろう日記を元に当時の天正期の豊臣政権の実像に迫っている。関白秀吉やその弟大納言秀長が代わる代わる輝元を宴席や茶会に招いている。それ以外に黒田官兵衛ら重臣達にも手配して挨拶回りの案内や取次の気遣い、茶会や能鑑賞、名所旧跡巡り、酒肴の差入れなど緊張緩和の気配りを含めた接待の様子を伝える。さらに輝元が用意した銀子・銭・馬・太刀という贈答品の数々はさすが中国地方の大大名である。それを可能な限り整理しての可視化を目指しています。本書による贈答に使用された銀子の記載を確認すると、6,238枚をくだらない。銀1枚=銀10両=43匁。1匁=3.75gとすると少なくとも約1トンの銀が配られたことになる。石見銀山からの莫大な収入を予感させる。政治、経済、鉱物資源、儀礼格式という色々な分野に興味を広げていただける内容でした。

大和宰相

大和宰相さん が  英賀城(兵庫県姫路市) を攻城しました(2023-09-19)

大和宰相

大和宰相さん が  国府山城(兵庫県姫路市) を攻城しました(2023-09-19)

大和宰相

大和宰相さん が  御着城(兵庫県姫路市) を攻城しました(2023-09-19)

大和宰相

大和宰相さん が  岡山城(岡山県岡山市) を攻城しました(2023-09-19)

大和宰相

大和宰相さん が  姫路城(兵庫県姫路市) を攻城しました(2023-09-19)

大和宰相

大和宰相さん が  宇和島城(愛媛県宇和島市) の写真をアップしました(2023-08-31)

宇和島城天守
宇和島城天守

伊予国宇和島城は、中世期にあった板島丸串城跡に藤堂高虎の手によって築かれた近世城郭で、東側に海水を引き込んだ堀としているあたり水軍の将としても活躍していた高虎らしく「海城」でもある。現在の天守などの建物は宇和島藩伊達家によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた高虎築城当時の形が活用されたと言われています。

大和宰相

大和宰相さん が  亀居城(広島県大竹市) の写真をアップしました(2023-08-30)

亀居城跡案内板
亀居城跡案内板

福島正則により毛利氏との国境に5年の歳月をかけ築城された巨大な城郭であったが徳川幕府から警戒され僅か3年で破却された短命の城郭であったと伝える。

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大和宰相さん が  伊丹城(兵庫県伊丹市) の写真をアップしました(2023-08-13)

伊丹(有岡)城に遺る石垣
伊丹(有岡)城に遺る石垣

伊丹駅前に整然と積まれた現代の改修を経た石垣とは、全く別の戦国時代を感じる石垣でした。

大和宰相

大和宰相さん が  伊丹城(兵庫県伊丹市) を攻城しました(2023-08-12)

大和宰相

大和宰相さん が  池田城(大阪府池田市) を攻城しました(2023-08-12)

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大和宰相さん が  川越城(埼玉県川越市) を攻城しました(2023-06-28)

大和宰相

大和宰相さん の読者投稿欄「徳川家臣団の中で誰にいちばん興味がありますか?」への回答が更新されました(2023-06-02)

「本多平八郎忠勝」です。地元大和郡山では、忠勝の子孫が2期2系統【1639年(寛永16年) - 1679年(延宝7年)3代、1685年(貞享2年) - 1723年(享保8年)5代】にわたり藩主だったが、知名度はない。大和郡山では柳沢家が江戸中期1724年(享保9年)から幕末まで藩主で明治以降も縁が深い。この機会に本多家にも着目したい。本多氏宗家の平八郎家には家訓として幼君に家督を継がせてはならぬという掟のため複雑な家督相続となる。「九・六騒動」と呼ばれる御家騒動のうえ分裂し弱体化してしまう。徳川家臣譜代名門ではあったが多くの小藩に分かれ、井伊家のような幕政を左右する者が出なかった。分家の播磨国山崎藩本多家の子孫から楽天創業者三木谷浩史氏を出している。2005年(平成17年)公益財団法人山崎本多記念館見学の際、家老の子孫横井様から保管されている武具文書の説明を受けました。系図作りました。

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今日のレビュー

猛将妄想録 1 (電撃ジャパンコミックス)

いまでも定期的に読み返す一冊。たまたま見かけたこの本のおかげで攻城団にマンガという武器が加わったと思うと感慨深いです。攻城団で発表した作品を収録した続刊も出版したいと思ってます。

こうの)

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