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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-23)
先ほどの投稿の修正です。
★亘利城の廃城
誤 1856年
正 1586年
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-23)
今日は新たに暫定登録された亘利(わたり)城跡に行って来ました。
説明板(左上写真)によると土豪であった松原氏によって築城されたようです。
松原氏は蜂須賀氏と同様の木曽川の川並衆であり、土岐氏の家臣であったようですが、美濃、尾張の境目の地にあり、織田氏、斎藤氏にも仕えたようです。墨俣城築城では大工棟梁として指揮したとのことです。また、城屋敷跡とあることから館跡(右上写真)と言った方がいいかもしれません。ほぼ遺構の跡はなく、1856年木曽川の洪水で廃城になったようです。唯一、地名に中島渡(わたり)町と残っています。南側に木曽川わたり渡船場跡の石碑(左下写真)
(右下写真)は渡橋とツインアーチ138です。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-21)
素晴らしいニュースです。
坂本城の三の丸外堀石垣が保存されるそうです。宅地造成工事は中止され、国史跡指定を目指すとのこと
10日、11日で2,000人が現地説明会に並んだパワーは自治体、開発事業者、地主さん等関係者を動かしたようですね。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-18)
今日は横山城跡に行って来ました。
観音寺に駐車しましたが、本堂の屋根からの落ちた雪が残っていました(右上写真)右側の登城口(右中写真)から階段を登りました。40分ほどで南城(右下写真)の主郭に到着しました。主郭を取り囲む土塁や堀切、竪堀を見た後、北城に向かいました。眺めは此方の方がいいですね。小谷城跡や山本山城跡、北国街道、北国脇往還(越前道)、姉川を眼下に見ることができます(遠景写真)
北城の主郭にある石碑(下中写真)、石田方面に行くと二重堀切(わかりずらいですが下左写真)があり、尾根筋を切っており防御を固めていました。しかし、その先に曲輪、虎口があり、時代の変遷の中で、城郭の構造を変えていったようです。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-12)
今日は宇佐山城跡に行って来ました。
宇佐神宮から宇佐八幡(右上写真)を経由して約40分で335mの宇佐山の山頂(右中写真)に着きました。結構、しんどかったです。しかし、本丸直下の石垣(下中写真)が見えたとたんに疲れがふっ飛びました。さらに宇佐山テラスと呼ばれている三の丸からの眺め(遠景写真)は登って来た達成感を味わうことがでしました。琵琶湖、北国海道(西近江道)を一望できる場所ですね。(下左写真)は本丸にあった説明図からすると虎口、櫓台、(下右写真)は二の丸です。
登城道の途中に地元の小学生が設置した案内板にクイズが書いてありました。【家族の中で山頂で待っているのは誰か】 答えは宇佐山テラスにあります。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-11)
今日は坂本城跡に行って来ました。現地説明会です。
朝、比叡山坂本駅に9時過ぎに到着しましたが、すごい列でした。3回目の13時半からの説明会に参加出来ました。
発掘現場は住宅地のど真ん中でした。道路計画の調査で見つかったそうです。いい機会だったので、湖畔の本丸にも行って見ました(右中、右下写真)途中、北国海道沿いにも坂本城跡の石碑(左下写真)がありました。湖畔の石垣は琵琶湖の水面が上昇し、見ることが出来ませんでした。
今後、石垣等の遺構がどのようになるか、楽しみであり、今回、見ることができたチャンスに感謝です。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-04)
今日は木越城跡に行って来ました。
郡上八幡城の初代城主 遠藤慶隆(よしたか)の遠藤氏のゆかりの城跡です。登城口にある説明板と標柱の横から登りました。最初、登山道はハッキリしませんが、しばらく登ると整備された登山道が現れます。巨石が至るところにあり、虎口(右下写真)のような場所や石積み(下中写真)が見られます。なかなかの城跡です。麓を長良川が流れ、街道は東氏の篠脇城跡、阿千葉城跡に至る越前街道です。次回はもう少し時間をかけて周りたいと思いました。遠景写真は麓から見た風景です。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-02)
今日は岐阜城に行って来ました。「山城と聖地」の続編です。
めい想のこみち(水手道)を10分ほど登ると丸山の伊奈波神社があったと伝えられている烏帽子岩(右上写真)がありました。さらに1時間登ると裏門を経由し、天守前の磐座(右中、右下写真)に到着しました。その近くには御嶽山信仰の祠がありました。遠景写真は山上から見た雪景色の白山が光っていて、神々しかったです。山上には上之権現の遥拝所があったとか? 小牧山の古城地図にも白山社があったとか?信長が白山信仰?
(下中写真)は31日に報道発表があった天守南通路の西側で「円礫、かわらけ」が見つかった場所です。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-01)
今日は山城と聖地に興味があり、小牧山城跡に行って来ました。
信長の築城の条件として、美濃が見渡せる山上であること、信仰の場所であることにより視覚的にも精神的にも権威誇示できる場所が必要であったと思います。
小牧山は独立した山(約86m)で古くから宗教施設のあった山のようです。西側中腹に観音洞(右上写真、右中写真)というところがあり、信長が小牧山に城を築城するにあたって、北西の麓の地に移されました「間々観音」、(右下写真)はその間々観音から見た小牧山です。遠景写真は観音洞にある「間々乳観音出現霊場」の石碑です。下が岩場になっており、説明板にある子鹿が7つの石になり、母鹿は千手観音になったという伝承の雰囲気がありました。
(左下写真)は現在、復元中の石垣です。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-01-17)
今日(1月17日)は安土城跡に行って来ました。
まさに天正4年(1576)に築城された月日です。というわけではなく、今日、開催された現地説明会に参加してきました。場所は天主台東面と本丸取付台中央部です。
(右上写真)は本丸取付台建物の礎石です。(右中写真)は火災により焼損した礎石らしいです。(右下写真)は天主台東面からの落石です。(左下写真)は東面から天主台の虎口付近の石垣です。(下中写真) は安土駅から降りた時に迎えてくれた信長像です。(遠景写真) は破城されたと思われる東面の崩落状況です。
時期は天正13年に八幡山城が築城され、廃城となった頃のようです。
3年ぶりの再攻城ですが、やはり素晴らしいオール石垣の城跡ですね。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-01-09)
今日(1月6日)は広見城跡に行って来ました。
なかなかの興味深い山城でした。案内図に従い、広幡町ふれあい広場に車を駐車し、広見川沿いに下集会所近くにある登城口(右上写真)まで10分ほど歩きました。地元ボランティアの方により整備された登山道を登り10分ほどで曲輪2に到着しました(右中写真)。その奥には土塁、堀切があり、帯曲輪(右下写真)につながっていました。さらに進むと虎口(左下写真)手前には石積み(下中写真)がありました。遠景写真は曲輪1です。
詳細は不明ですが、登城口にあった資料によると近くの八草城とあわせ、織田信長の直臣であった中条秀正が城主であったようです。なかなかの規模の山城で、織田信長の西三河侵攻に関係があるようです。
猫セブン 様
攻城メモ、たいへん参考になりました。ありがとうございました。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-01-01)
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
今年も犬山城の初日の出を見て来ました。天気も良く、気温6℃で素晴らしい「初日の出」で、多くの人出でした。
ふと、創建時の犬山城を見た昔の人々もある意味で、畏敬の念で見上げたことでしょうね。戦う城郭から魅せる城郭に変化した「現存最古の国宝犬山城」です。
昨年は美濃金山城の国史跡指定10周年にあたり「金山越し」に注目し、犬山城の創建について調べて見ましたが、創建が「小牧・長久手の戦い(1584)」の直後から始まり、小田原征伐(1590)に完成したらしいです。つまり、織田信雄時代(城主:中川定成、犬山城の登城口に石碑があり)から秀吉時代(城主:石川光吉)にかけて築城され、その後、唐破風は徳川時代(城主:成瀬正成)に改修されたようです。
以前は当初1、2階部分、その後、3、4階の望楼部分が増築されたと思っていましたが、「天守部材の年輪年代調査、修理工事報告書」によると1階から4階まで同時期に築城されたようです。また、美濃金山城(1600年、森忠政 川中島に転封により廃城)から移築(一部分)されたという伝承は否定できないようです。
写真は初日の出(7時1分) の犬山城です。
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なべさん の読者投稿欄「2024年に訪問したいお城、獲得したいバッジなど、あなたの攻城目標を聞かせてください 」への回答が更新されました(2024-01-01)
◎私の訪問したいお城は松江城です。
・国宝5城で未訪問のお城です。
◎攻城目標は600城です。(12/31現在、486城)
・主に日帰り、時々泊で近江、三河、伊勢を中心に攻めたいと思います。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-12-31)
今日は今年の締めくくりに犬山城へ歩いて行って来ました。約1万歩、1時間半の散歩です。
(右上写真)は犬山橋の岐阜県と愛知県の県境からです。木曽川を挟んで右に伊木山城跡のある伊木山が見えます。
(右中写真)は東側からです。
(右下写真)は南西からです。
(下中写真)は南西からです。
(左下写真)は下流にあるライン大橋からです。木曽川を挟んで鵜沼城跡のある城山(じょうやま)が見えます。
(遠景写真)は私が好きなアングルで木曽川の反対側からです。天気がいまいちでしたが、近くに来られたらお立ち寄りください。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-12-23)
今日は刈屋城跡に行って来ましたが、刈谷市歴史博物館に寄り展示史料に興味が湧き、於大の方ゆかりの城を攻城しました。
於大の方出生の地→緒川城跡(右下写真)、出生の碑がある緒川古城跡(下中写真)
7才までいた→刈屋城跡(右上写真)、本丸(遠景写真)
松平広忠と離縁後に住んだ→刈屋城跡の近くにある椎の木屋敷(右中写真)
久松俊勝に再嫁した→坂部城跡(右下写真)
特に刈屋城跡は尾張と三河の境川に面した素晴らしい城郭でした。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-12-16)
今朝8時半頃の犬山城です。
気温14度、木曽川から立ち込める霧が犬山城を雲海の城にしています。よく見ると木曽川の水面に犬山城が反射しています。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-12-11)
昨日は勝楽寺城跡にも行って来ました。
勝楽寺の六脚の切妻門(右上写真)の前に駐車しました。この門は勝楽寺城の城門(戌居門)を移設したそうです。正楽山ハイキングコースはタフでした。経塚、狐塚を越えて約40分で尾根筋に到着しました。幾つもの曲輪があり、主郭の見晴台方向は高い切岸(右中写真)のようでした。主郭の入口には巨石(右下写真)が転がっており、見晴台方向の虎口には石積(下中写真)が見られました。
尾根伝い(左下写真)に幾つもの曲輪と思われる平地を歩くと「上ろう落とし」と呼ばれている曲輪に到着しました。遠景写真は「上ろう落とし」からの近江の素晴らしい眺めです。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-12-10)
今日は八講師城跡に行って来ました。
梓河内の交差点を曲がり、八講師城跡入口から約4kmの林道を進みました。途中に伐採作業中の作業車が止まっていましたが、他の山の林道に比べると広いほうですね。登城口からの攻城です。約10分程で城域です。曲輪Ⅱの法面には曲輪の補強に用いられていたと思われる崩れた石積み(左下写真)が見られました。また、曲輪Ⅱでは発掘調査がされており、ブルーシート(下中写真)で覆われていました。ブルーシートを迂回し、曲輪Ⅰ(右上写真)に到着しました。中央には大きな巨石(右中写真)があり、「黄金の鶏の伝承」があるそうです。遠景写真は曲輪Ⅰから雲海の中に見えた電力鉄塔(写真中央にかすかに浮かんでいます)です。
(右下写真)は、このあとに攻城した物生山城跡で出会った猿です。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-12-06)
今日は清水山城跡に行って来ました。
JR湖西線 新旭駅から歩きました。北国街道を横断し大手道からの登城です。東屋敷の入口にはかなりの数の阿弥陀石仏(右下写真)がありました。さらに土塁に囲まれた東屋敷(越中殿)を通りすぎ、主郭手前の畝状空堀群(右上写真)がありました。信長戦に備え、朝倉氏により改修されたとのことでした。主郭(右中写真)に登るとL字型の奥に礎石があり御殿があったようです。曲輪は3方向(東南、南西、北西)に放射状にあり、堀切、畝状空堀(下中写真)で防御されていました。帰りは西屋敷(加賀殿)の土塁に囲まれた屋敷跡をぬけ大手道(右下写真)を通り、下りました。巨大な山城でした。
遠景写真は主郭から琵琶湖、伊吹山方向です。素晴らしい天候でした。
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なべさん が最近のひとことを更新しました(2023-12-04)
前々日に長光寺城跡に行って来ました。2回目の攻城です。
一ヶ月前に登城口が瓶割山の日吉神社ということで行きましたが、途中で道路は進入禁止。獣防止柵で徒歩でもダメで諦めました。帰宅し、先人の攻城メモをよく読むと瓶割山には日吉神社は二ヶ所あると丁寧に説明してあるではないですか!
今回は北側の日吉神社の裏にある登山口(右上写真)から攻城、20分程で分岐点(右中写真)に到着しました。さらに進むと瓶割山山頂(右下写真)に到着しました。一の郭(下中写真)は広く、南西側の石垣(左上写真写真) は高さ4mもある素晴らしいものでした。この石垣は近くの観音寺城に関連したものでしょうか?先日、攻城した佐生城といい、観音寺城を中心に石垣を採り入れた城跡が多いのが気になりますね。
既存の山岳寺院を取り込んだ結果でしょうか?
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