なべ

なべ()さん 大老 サポーター   フォロー

中部地方を中心にマイカー(ハスラー)で、城攻め中です。
1年間で走行距離が27000kmを越えました。
2年間で45000kmを越えました。最近は(列車+レンタカー)が増えました。
3年間で64000kmを越えました。絶好調です。
4年間で81000kmを越えました。最近はガイドしていただく攻城が増えました。
(令和6年6月1日追記)

なべさんのタイムライン

なべ

なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-04-22)

今日(昨日)は芥川山城跡に行って来ました。
JR高槻駅北口から塚脇まで市営バスです。妙力寺方向に15分ほど歩くと三好山への分岐点(右上写真)に到着しました。
さらに塚脇ルートを進むと竪土塁(右下写真)がありました。写真では分かりにくいですが、竪堀に土塁とは凄い防御。その反対側の曲輪は高い土塁(下中写真)で囲まれていました。
この先に堀切、土橋があります。
このあたりは多くの曲輪があり、飯盛城跡と同様に山上に家臣も屋敷を構えたようですね。さらに主郭に向かって進みます。大手筋ルートとの合流点に城山石碑があります。
大手筋ルートを40mほど急坂を下りると大手石垣(右中写真)があります。下から登ると相当な威圧感があります。5分ほど登り、広い主郭(左下写真) に到着しました。(遠景写真)は主郭から見た飯盛山方向です。高槻市街地が良く見えます。三好長慶は9年間、この芥川山城を居館としたそうです。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-04-21)

今日(昨日)は飯盛城跡に行って来ました。
JR四條畷駅で案内図を入手し、最短距離・最短時間の飯盛山展望コースを選択、四條畷神社(右上写真)で参拝し、急坂・階段を30分ほど歩くと眺望270°パノラマスポットに到着しました。さらに堀切を越え、目的の磐座と言われる御体塚(右中写真)に到着、石柱碑の裏にはなんと「登山三百回記念」とあるではないですか。興醒めしました。しかし、近くにある石垣(右下写真)は良かったですね。さらにいくつかの曲輪を越え、高櫓のあった曲輪(下中写真)に到着しました。(遠景写真) は其所からの四條畷市です。楠公寺を見て、南丸曲輪から両側に石垣のある虎口(左下写真)を抜けて、七曲りコースで下山する予定が途中で竹林コースに入り、大変なことに(道が狭く楽ではなかった)、でも無事に野崎城跡を経路し、野崎観音に下山できました。3時間ほどの縦走でした。また、別のルートで再度、攻城したいですね。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-04-17)

今日は中村公園にある秀吉清正記念館に行って来ました。
ニュースで酒井家(坂井家)から信長、秀吉、家康に関わる古文書が名古屋市に寄贈され、4月16日から5月6日まで先行展示されるということでした。
(右上写真)は1567年、信長が坂井文助に知行地(岐阜市内の一部)を与えるという「天下布武」印を使用した最初期の文書だそうです。1567年は信長が稲葉山を攻め取った時期ですね。
(右中写真)は1574年、信長が坂井文助に尾張国中のインフラ整備を指示した文書です。文助は土木奉行だったようです。信長はインフラ整備に力を入れたようですね。
(右下写真)は秀吉が文助に尾張国中を秀吉の鷹場とし、餌とする鳥を捕獲し進上するように命じた文書です。
(下中写真)は公園内にある秀吉誕生の地とする石碑、(左下写真)は秀吉清正記念館。(遠景写真)は豊国神社です。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-03-31)

昨日は大森城跡にも行って来ました。
布施城は布施三河守家、大森城は布施淡路守家による築城です。
布引丘陵(標高223m)に築かれた主郭と4つの曲輪から構成されていました。
大森神社の駐車場に車を置き、林道を歩きました。5分ほどで登城口(右上写真)に到着しました。布施城跡よりも城内が広いです。曲輪を囲む土塁の上を進むと堀切(右中写真)がありました。さらに進むと主郭(遠景写真)に到着しました。主郭から喰違い虎口(左下写真)を経由して進み、登り土橋(左下写真)を降りて行くと井戸(下中写真)のある曲輪に到着しました。全体的に外周は曲輪を土塁で守り、数ヶ所に櫓台を備え、要所要所には虎口を配置した興味深い城跡です。布施山城跡と同様に手作りの足軽人形が迎えてくれました。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-03-30)

今日は布施山城跡に行って来ました。
布施公園に駐車し、目指すは標高240m(比高120m)の布施山(遠景写真)です。布施溜池(左下写真)沿いを歩くと布施山城跡の登城口(右上写真)に到着しました。有難いことに登山道も整備されており、しばらく歩くと木で作った足軽人形が迎えてくれました。城跡まで350mの案内板。さらに進むと巨石群がありました。この辺りは布施古墳群があり、その巨石が利用されたと思われます。約20分ほどで土塁に囲まれた主郭(下中写真)に到着しました。縄張りは主郭と副郭の構成となっており、主郭の虎口周辺には巨石が転がっており、埋門があったらしいです。
六角氏の観音寺城跡から南方7kmの位置にあり、布施氏は六角氏の家臣ということです。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-03-27)

今日は松尾山城跡に行って来ました。
昨日に続き、関ヶ原モニターツアーです。
松尾の登城口から20分ほどで主郭に到着しました。主郭は土塁で囲われ一部、石積(右中写真、右下写真)が露頭していました。関ヶ原合戦前に石田三成の指示を受けた当時、大垣城城主伊藤盛正による、ということでした。(遠景写真)は主郭から見た伊吹山方向です。(右上写真)は主郭にある枡形虎口にあったとみられる櫓から見た馬出状の曲輪方向です。枡形虎口と合わせ侵入する敵を狙い打ちです。(左下写真)は西側の曲輪の先にある堀切です。この先に南西の曲輪がありますが、他の曲輪に比べ、平坦地があまりなく、土塁もなく浅井長政時代の曲輪らしいです。近江と美濃の境目の城として、浅井長政時代、織田信長時代を経て、関ヶ原合戦の重要な拠点として西軍の大将毛利輝元を迎え入れるため北側(関ヶ原)からの攻撃を意識し、改修された西美濃最大の山城であることに感銘を受けました。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-03-26)

今日は玉城跡に行って来ました。関ヶ原モニターツアーに参加です。
小雨の天気でしたが、玉城跡の堀切、竪堀、切岸などの縄張を堪能してきました。
登城口には陸軍兵器庫があった時代の境石柱(右上写真)がありました。整備された登山道を15分位行くと山頂部の曲輪に到着しました。虎口らしい遺構はなく、一段高くなった所に東屋がありました。(右中写真)はその曲輪から見た関ヶ原方向です。岐阜駅前の高層ビルも見えました。山頂部の曲輪を西側に進むと低い土塁(右下写真)と思われる盛上りがありましたが、さらに西側に進むと大きな堀切(遠景写真) があり、その奥には土橋があり、その先は竪堀(下中写真)になっていました。さらに進むと連続した竪堀群があり、西側(近江)に向けた防御が高いことがよくわかりました。まさに美濃と近江境目の城としての陣城らしい城郭でした。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-03-10)

今日は岡崎城に行って来ました。
坂谷曲輪の現地説明会です。
天守の西側にある板谷曲輪と白山曲輪をつなぐ部分に坂谷門があります。外門(高麗門)と内門(櫓門)により枡形を構成していたそうです。内門は8個の礎石が確認され(右上写真、右中写真)そのうち一つの柱あたりから鉄サビが残っており黒金門ではということでした。(右下写真)は内門から外門に続く石組み側溝です。
外門は3つの礎石(左下写真、下中写真)が残っており、1つはなくなっていました。(遠景写真)は白山曲輪から見た坂谷門です。関ヶ原の戦い後に西の豊臣に対する防御拠点として本多氏が築城しはじめたそうです。板谷門の外には土橋、丸馬出しが東海道の方向にあったそうです。すぐそばに天守が控えており、東海道からのインパクトは凄いものだったと思います。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-03-08)

今日は掻上城跡に行って来ました。
郡上市立郡南中学校の側にある白山神社の前に案内板(写右上真)があり、社の左側が登城口です。整備された登山道(右中写真)を進むとすぐに祠(右下写真)に到着しました。平坦地がなく、数名の砦か狼煙台のような気がします。
時間が余ったので、東海北陸自動車道開通により、城跡のなくなった鶴尾城跡(苅安城跡)にも行って来ました。林広院を経由して鶴尾城跡の消失を慎んで建てられた福徳天神生成(いなり)(下中写真)の裏からしばらく歩くと東海北陸自動車道にかかる橋がありました。この先に主郭があったようです。相当な規模の山城です。遠藤氏が郡上八幡城に入る前にいた城ですが、(遠景写真)は林広院から見た粥川城跡(右手)と掻上城跡(左手)です。鶴尾城とあわせ三城と呼ばれいたそうです。(遠景写真)の中ほど左手に青色の三城橋があります。
遺すことは出来なかったのでしょうか、残念です。

なべ

なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-03-07)

今日は粥川(かいかわ)城跡に行って来ました。場所は岐阜県郡上市美並町粥川地区です。在地土豪の粥川氏(東氏の配下)のお城だそうです。城山(299m)の東側にある高原(こうはら)城跡の登城口(右上写真)から攻城です。石段を上がると白山神社(右中写真)に到着しました。神社を回り込み裏手をさらに進み、結構なキツイ登山道を約20分ほどで主郭に到着しました。秋葉神社の祠とコンクリートの遺物がありました。昔のテレビ中継施設だそうです。帰りは西側に下りて行き、30分ほどで林道(下中写真) に出ました。しばらく、粥川に沿って歩くと粥川城跡の説明板(左下写真) がありました。東側の集落と西側の集落で呼び名が違うようです。(遠景写真)は粥川と城山です。粥川の水はたいへん綺麗でした。また、全国の粥川さんの名前の発祥の地だそうです。
たいへん面白い城跡です。麓を郡上街道が通り、粥川はすぐ近くで長良川につながっています。対岸の掻上城と合わせ交通の要衝を監視する位置ですね。

なべ

なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-29)

今日(2月28日)は飯田城跡に行って来ました。特筆すべきは立地場所ですね。伊那谷特有の舌状丘陵の先端にありました。(右下写真)は桜丸にある県合同庁舎の東側ですが、20mはある断崖となっています。まさに天然要塞ですね。(遠景写真)はその桜丸から見た南アルプスです。桜丸には明治政府による破却を逃れた桜丸御門(下中写真)「赤門」があります。(右上写真)本丸に向かう通路にあった井戸跡です。(右中写真)は二の丸跡にある飯田美術博物館の水路と塀です。
この地の地頭であった坂西氏が最初に愛宕に居館(飯坂城跡)を構えたそうですが、後に山伏の修行場であった場所に飯田城を構えたようです。そのため、山伏丸(左下写真)と呼ばれている場所がありました。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-29)

今日(2月28日)は大好きな苗木城跡に行って来ました。
今回は目的を石垣に絞って見て周りました。1526年に高森山に遠山苗木氏により築城されたそうです。信長の死後、家康の傘下に入り追われたが、18年後の関ヶ原合戦後に奪回したそうです。その後、明治維新まで12代続きました。1万石で唯一の城持ち大名でした。1718年の地震で18箇所の石垣が崩れたそうです。そのためもあり、色々な石垣を見ることができます。(右中写真)は武器庫前の野面積み、(下中写真)はその側の打込接ぎ、(左下写真)は天守台下の切込接ぎ、(右下写真)は二ノ丸前の谷積みです。一時期、美濃金山城の森氏配下になったになったことからすべてが苗木氏によるかはわかりませんが、石垣の博物館です。石垣の好きな方はぜひ、ご来城下さい。
(右上写真)は高森神社の奥にある風穴
(遠景写真)はその高森神社前からの苗木城跡です。バックに見えるのが雪をかぶった恵那山です。
ちなみに江戸時代以降は苗木遠山氏と呼ぶそうです。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-28)

今日は信濃にある鈴岡城跡に行って来ました。三家に分裂した信濃守護小笠原氏の一つ、鈴岡小笠原氏の居城です。毛賀沢川を挟んで反対川には松尾小笠原氏の松尾城跡があります。両方とも城址公園として整備されています。二ノ丸(左下写真)の一部が駐車場になっており車を止め、大きな堀切(下中写真)に守られた本丸に向かいました。堀底(右上写真)を通り一部土塁の残る本丸(右下写真)に到着しました。立派な城跡石碑(右中写真)がありました。
本丸から堀切を抜け出丸に到着。(遠景写真)は出丸から見た南アルプスです。

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なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-25)

今日(2月24日)は彦根城に行って来ました。
天守が耐震工事のため太鼓門櫓、天秤櫓、西の丸三重櫓及び佐和口多聞櫓(天守の代わりに解放)を見て周りました。西の丸から見た天守(遠景写真)がより威厳を感じました。やはり、対大坂豊臣に向けた造りでしょうしょうか。今は搦め手門の山崎山道も大手道であった時代を想像させる高石垣です。特に西の丸の三重櫓から見た琵琶湖等(左下写真)の監視がこの櫓の目的であったことが容易に想像できます。山崎山道は通行止のため、帰りは黒門山道を経由しましたが、本丸の高石垣の凄いこと(右下写真)。黒門を出て玄宮園(右上写真、右中写真)を見て帰りました。梅の花が咲き始めていました。
日頃、ほとんど、誰も会わない山城を攻城しているので、今日は大都会に来ているようでした。私は人の来ない山城で、いろいろ妄想する方が好きですね。

なべ

なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-24)

今日は山崎山城跡に行って来ました。
下街道を進み、宇曽川にかかる橋を渡り、右に曲がりしばらく行くと立派な駐車場がありました。登城口には説明板(右上写真)がありました。整備された登山道(右中写真)を登って行くと約15分で三郭(左下写真)に到着します。南側には1m弱の高さの石垣(右下写真、下中写真)が残ってました。在地土豪であった山崎氏の居城であったようです。信長が近江に進出した際に傘下になったようです。遠景写真は三郭から見た麓を流れる宇曽川と佐和山方面です。説明板には信長が近江支配時に下街道整備と合わせ、山崎山城を石垣造りの山城に改修し、安土城と佐和山城の中間の重要拠点としたようです。

なべ

なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-23)

先ほどの投稿の修正です。
★亘利城の廃城
誤 1856年
正 1586年

なべ

なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-23)

今日は新たに暫定登録された亘利(わたり)城跡に行って来ました。
説明板(左上写真)によると土豪であった松原氏によって築城されたようです。
松原氏は蜂須賀氏と同様の木曽川の川並衆であり、土岐氏の家臣であったようですが、美濃、尾張の境目の地にあり、織田氏、斎藤氏にも仕えたようです。墨俣城築城では大工棟梁として指揮したとのことです。また、城屋敷跡とあることから館跡(右上写真)と言った方がいいかもしれません。ほぼ遺構の跡はなく、1856年木曽川の洪水で廃城になったようです。唯一、地名に中島渡(わたり)町と残っています。南側に木曽川わたり渡船場跡の石碑(左下写真)
(右下写真)は渡橋とツインアーチ138です。

なべ

なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-21)

素晴らしいニュースです。
坂本城の三の丸外堀石垣が保存されるそうです。宅地造成工事は中止され、国史跡指定を目指すとのこと
10日、11日で2,000人が現地説明会に並んだパワーは自治体、開発事業者、地主さん等関係者を動かしたようですね。

なべ

なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-18)

今日は横山城跡に行って来ました。
観音寺に駐車しましたが、本堂の屋根からの落ちた雪が残っていました(右上写真)右側の登城口(右中写真)から階段を登りました。40分ほどで南城(右下写真)の主郭に到着しました。主郭を取り囲む土塁や堀切、竪堀を見た後、北城に向かいました。眺めは此方の方がいいですね。小谷城跡や山本山城跡、北国街道、北国脇往還(越前道)、姉川を眼下に見ることができます(遠景写真)
北城の主郭にある石碑(下中写真)、石田方面に行くと二重堀切(わかりずらいですが下左写真)があり、尾根筋を切っており防御を固めていました。しかし、その先に曲輪、虎口があり、時代の変遷の中で、城郭の構造を変えていったようです。

なべ

なべさん が最近のひとことを更新しました(2024-02-12)

今日は宇佐山城跡に行って来ました。
宇佐神宮から宇佐八幡(右上写真)を経由して約40分で335mの宇佐山の山頂(右中写真)に着きました。結構、しんどかったです。しかし、本丸直下の石垣(下中写真)が見えたとたんに疲れがふっ飛びました。さらに宇佐山テラスと呼ばれている三の丸からの眺め(遠景写真)は登って来た達成感を味わうことがでしました。琵琶湖、北国海道(西近江道)を一望できる場所ですね。(下左写真)は本丸にあった説明図からすると虎口、櫓台、(下右写真)は二の丸です。
登城道の途中に地元の小学生が設置した案内板にクイズが書いてありました。【家族の中で山頂で待っているのは誰か】 答えは宇佐山テラスにあります。

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今日のレビュー

涅槃 上

戦国の梟雄と謳われた宇喜多直家の生涯を描いた歴史小説です。

官能小説かと思わせるくらいの性的な描写があるにも関わらず、全体的に低俗な印象は無く、人間味溢れる物語でした。

備前、備中のお城がよく登場し、下巻では三国一の美女おふくさんもしっかり登場します。

現在のJR岡山駅界隈の発展の礎を築いた人物であると改めて認識しました。

デュラけんさん)

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