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城郭建造物が現存・移築・復元・復興・模擬を問わず大好きです。

ごましおさんのタイムライン

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ごましおさん が最近のひとことを更新しました(2024-11-01)

こんにちは。ごましおです。
2024年9月28日(土)に開催された、令和6年度「東地域・家康公ゆかりの里」推進事業・歴史講演会「梓澤要と語る~歴史ものにおけるフィクションと史実〜」の動画配信を視聴しました。
梓澤要氏が来場者とディスカッションをしながら講演会を進めていくという、ちょっと変わった形式の講演会でした。歴史ものにおけるフィクションを認めるかどうかというのは人によって考えが分かれる難しいテーマだと思います。
お城に置き換えると模擬天守を認めるかどうかというようなことになるのでしょうか?ごましおは模擬天守は模擬であって復元ではないということを理解した上で、模擬天守はウェルカムというスタンスです。しかしそれは模擬天守を見てそこに本物の天守があったと勘違いする人もいることを許容しているということにもなりますね。
色々な意見があって勉強になりました。

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ごましおさん が最近のひとことを更新しました(2024-10-06)

こんにちは。城郭建造物大好き・ごましおです。
10/6(日)14:00-15:30 岐阜県可児市兼山小学校体育館にて三浦正幸広島大学名誉教授による金山越し講演会「日本最古の城門と天守」に参加しました。
可児市によれば金山越しとは美濃金山城を構成したさまざまな建物が犬山城に引き継がれたという歴史ロマンを指すようです。
三浦先生は金山越し肯定派のようです。ただ犬山城天守2階までが美濃金山城天守の移築で、3階以上は美濃金山城とは無関係と言っているように私には聞こえました。これは「国宝犬山城天守の創建年代に関する新発見」(編集 麓和善名古屋工業大学名誉教授)に書いてある年輪年代調査結果により「一重から三重までが一連で建設されたことが実証され」たとする見解と真っ向から対立する主張になると思われます。
三浦先生は木の年代についても詳しいようでしたので建築の知識のない私にはどちらが正しいのかは分からなかったです。
なお、話の中心は瑞泉寺に移築された美濃金山城の移築城門(写真)の方でした。こちらの方はとても面白かったです。

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ごましおさん が最近のひとことを更新しました(2024-09-15)

以前に購入した御城印繋がりで東京都青梅市にある辛垣城攻城を考えていたのですが、この暑さでは辛垣城まで到達できる自信がないので断念し、比較的攻城しやすいと思われる同じ青梅市の日向和田要害山城攻城に切り替えました。
日向和田要害山城は2023年に当時、武蔵高等学校1年の田中俊輔氏が発見したお城です。田中氏は少なくとも2本の日向和田要害山城関連の論文を発表しており、うち1本は「16世紀甲武”境目”地域における道と城郭」でGoogle検索することで無料のPDFがダウンロード可能です(2024年9月15日時点)。この論文には日向和田要害山城の縄張図も掲載されています。最近の高校生は大人の研究者顔負けですね。
さて田中氏が描いた縄張図を含む2本の論文を手に攻城しましたが、私的な一番の見所は城の右端の大きな堀切でした(写真)。日向和田要害山城の御城印も堀切の写真ですね。なお、日向和田要害山城は石灰採掘により山頂部分が大きく削られているようです。
日向和田要害山城攻城後に青梅駅から徒歩10分のところにある梅菓匠にしむらで日向和田要害山城の御城印と梅大福2種とカリカリ梅酒梅を買ってから家路に着きました。

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ごましおさん が最近のひとことを更新しました(2024-08-10)

8/10(土)に東京都武蔵村山市にある武蔵村山観光案内所で、辛垣城の新作御城印「員野半四郎 武将印セット」を購入しました。熱い想いで員野半四郎を紹介した紙もついてきます。員野半四郎は地元なのに初めて聞く名前でしたが、慶長17年(1612)に三田氏の家臣だった谷合太郎重久信によって書かれた「日記(谷合家文書)」の北条氏照による三田氏辛垣城攻めの中で次のように描かれています。「(前略)員野半四郎ト云者村山之地頭也、案内者故赤出立ニテ真先ニ上ルヲ鉄砲ニテ打ヲトサル、此鉄砲者伊勢之竜太夫三田殿江一挺進上申也(後略)」。北条氏照の辛垣城攻めは永禄4〜6年(1561〜1563)頃ということを考えると関東の戦国大名未満の三田氏がこの時期に鉄砲を一挺持っていて、かつ実戦で使用したというのはびっくりです。「日記(谷合家文書)」の辛垣城攻めに北条方として登場する人物は、北条氏照、員野半四郎、塚田又八(三田方から寝返る)しかいないので員野半四郎はかなり目立っていたのかも知れません。三田氏が鉄砲を持っていたことを自慢したかっただけかも知れませんが。また「定本市史青梅」には次のように記述されています。「よもや三田勢に新兵器の鉄砲はあるまいと、村山の地頭員野が、赤いでたちで先登に勇み立って登ってきたところを、一発で打ち落とされたという記録は面白い」。ちょっと員野半四郎に失礼な記述ですね。涼しくなったら赤い服を着て、辛垣城を攻城したくなりました。なお、観光案内所は8/11~8/15まで夏期休暇だそうです。

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ごましおさん が最近のひとことを更新しました(2024-07-14)

7/14(日)14:00-15:50に第32回歴史講演会「平安時代の鹿島 -古代から武士の時代へ-」(主催:公益財団法人鹿嶋市文化スポーツ振興事業団、講師:川尻秋生 早稲田大学文学学術院教授)をオンライン聴講しました。夏は暑いので現地まで行かないで講演会に参加できるのは大変ありがたいです。テーマとしては大きく二つありました。①10世紀の内乱と鹿島②鹿島使 の2つです。両方とも面白かったので簡単に紹介します。①について。平将門の乱の遠因となる常陸国府焼き討ちについて、当初は人助けのための仲裁のために常陸国府へ向かったところ仲裁相手が攻めかかってきたのでなりゆきで戦ったらしいとの説明でした。だいぶ平将門に好意的な見方でしょうか。なお、常陸国府は7世紀から続いた国府で現在は石岡小学校の下に埋まっているらしいです(常陸府中城があるところです)。その後、平将門の乱鎮圧に功績のあった氏族が台頭していき、その中で清和源氏の源頼信配下の平維幹が常陸大掾氏の祖となっていったそうです。その常陸大掾氏の末流が鹿嶋氏だとか。②について。奈良の春日大社の祭神は鹿島神社(茨城県)・香取神社(千葉県)・牧岡神社(大阪府)の神を勧請したものだそうです。その縁でか、春日大社が春日祭を行うために、神封(神社に対しての租税・労役の提供を行う集団)を持たない春日大社の代わりに鹿島神社と香取神社の神封で賄っていたそうです。鹿島使は鹿島・香取使とも呼ばれ、鹿島神社・香取神社へ使者を派遣することで、例外的に鎌倉初期まで続いたとのこと。定期的には春日祭を行う前に鹿島神社の神と香取神社の神に感謝を伝える使者を派遣したのではないか、不定期的には藤原摂関家が自己の目的の成就祈願のために両神社に使者を派遣したのではないかとのことです。平安時代のことをほとんど知らなかったので、とても勉強になりました。

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今日のレビュー

猛将妄想録 1 (電撃ジャパンコミックス)

いまでも定期的に読み返す一冊。たまたま見かけたこの本のおかげで攻城団にマンガという武器が加わったと思うと感慨深いです。攻城団で発表した作品を収録した続刊も出版したいと思ってます。

こうの)

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