内藤義清は松平清康に仕え、岡崎五人衆と呼ばれた腹心の1人だった。内藤家の初代・家長はその義清の孫に当たる。強弓の使い手として鳴らし、三河一向一揆の鎮圧や「長篠の戦い」などで戦功を立てた。小田原攻めでは先鋒を務め、その戦いぶりを豊臣秀吉からも称賛されたという。その後、上総国佐貫藩2万石に封じられた。
しかし、家康の上杉家征討の際、家長は伏見城の守りを命じられる。次男の元長を連れて小早川秀秋の軍勢と戦うが、力尽き、鳥居元忠らとともに戦死した。
2代・政長は家長の嫡男で、内藤家の家督を継ぐと同時に、父の功績を受けて1万石を加増された。その後も何度か加増され、1622年(元和8年)、陸奥国磐城平藩7万石へ転封されることとなった。
このとき、政長の嫡男の忠興も2万石を領しており、内藤家としては9万石の石高を得ている状態だった。
政長は藩政において、「小川江筋」と呼ばれる巨大な用水路を作り、防風林や防潮林、街道の並木などの植林政策を進めている。3代・忠興はそれを受けて新田開発にいそしんだ。なお、忠興は家督を継ぐ際、自分の領する2万石を弟の政晴にゆずっている。
4代・義概は俳諧に傾倒し、奥州俳壇の始祖といわれるほどの腕前だった。『夜の錦』『桜川』『信太の浮島』といった俳諧の書も残している。反面、藩政は家老の松賀族之助に任せきりでおろそかにしていた。
このため、磐城平藩は族之助の一門に牛耳られてしよう。7代・政樹のときには、族之助の子の孝興と、孝興の嫡男である稠次らが政樹の父を毒殺しようとし、それが発覚して松賀一門が断絶されるという事件も起こった。
藩政が乱れる中、暴風雨による水害が多発し、さらに幕府から日光・渡良瀬川の改修を命じられたことで磐城平藩の財政は逼迫する。これに耐えかねた領民が全藩一揆を起こし、内藤家はこの影響で日向国延岡藩7万石へと転封された。
政樹は入封後、「町方掟書」28カ条を定めて藩政を引き締め、一方で儒学者や和算家を登用して学芸を広めようとした。政樹自身も俳諧を心得ており、延岡藩に俳諧の文化が広まる要因となった。
ただ、藩財政の立て直しには有効な手を打でないままだった。
10代・政韶は植物方という役職を設け、植林を進めるとともに新田開発にも力を入れた。12代・政順に至っては壊滅的な財政を補うため、商人の資本や特権を強制的に取り上げ、専売制を強化するという強硬策に出た。13代・政義は、飢饉対策として穀物からの酒造を禁止している。このようにさまざまな政策が打ち出されたが、慢性的な財政難を克服するほどの効果は得られなかった。
14代・政挙は第一次・第二次長州征討に幕府側として参戦する。内藤家はあくまでも佐幕を貫こうとしたが、他の日向国の諸藩は新政府軍に従ったため、孤立してしまう。結果、朝敵として扱われてしまい、入京を禁止され、政挙は謹慎・糾問を受けることとなった。その後、薩摩藩のとりなしで新政府軍に帰属し、政挙の謹慎も解かれた。
版籍奉還の後、政挙は延岡藩知事に任命され、子爵位を授けられた。その後、女児教舎(後の延岡高等女学校)や日平尋常小学校などを設立している。