戸田家は戸田宗光を共通の祖とし、宗家は二連木城を居城としたので二連木戸田家という。宗光のひ孫の康光がこの系統を継いでいった。康光の弟の忠政は分家となり、田原城を築いたので田原戸田家を名乗っている。
戸田家の分家は田原系と大垣系とに分かれる。田原系は田原城を築いた忠政からつながる系統。大垣系は宗家である松平藩藩祖・康長の娘との婚姻により別家を立てた一西からつながる系統だ。
戸田康光は1547年(天文16年)、今川義元のもとへ人質として送られる途中だった竹千代(のちの徳川家康)を強奪し、織田信秀に売り渡した。このことで今川家の怒りを買い、戸田家は今川家に攻撃されて、康光は戦死する。
しかし、康光の娘の真喜姫が家康の父・広忠の後妻となり、戸田家は図らずも徳川家との婚姻関係を手に入れる。
「桶狭間の戦い」で今川義元が討ち死にすると、戸田家は今川家に見切りをつけて徳川家に仕える道を選んだ。初代・康長は康光のひ孫に当たる。康長は家督を相続した際、家康から松平姓を与えられている。他家に松平姓の使用が許されたのは戸田家が最初だった。また、康長の妻として家康の異父妹の松姫が嫁ぎ、徳川家と戸田家の結びつきはますます強まった。
家康の関東入りに際して、戸田家は武蔵国深谷城1万石を与えられる。「関ヶ原の戦い」の後には1万石を加増され、上野国白井藩2万石に移された。続いて下総国古河藩2万石、常陸国笠間藩3万石、上野国高崎藩5万石と目まぐるしく加増と転封をくり返し、元和3年、信濃国松本藩7万石に封じられた。
2代・康直のとき、戸田家は播磨国明石藩に転封される。翌年、康直は18歳の若さで急死してしまい、戸田家は後継者を失ってしまった。本来なら取り潰されるところだが、康長の功績を考慮して3代・光重が家督を継ぐことが認められる。
5代・光熙のとき山城国淀藩7万石、6代・光慈のとき志摩国鳥羽藩6万石へと転封が続き、その後、ふたたび信濃国松本6万石へと転封されてそこに落ち着いた。
光慈は藩政に手腕を発揮した藩主として知られる。勉強熱心だった光慈は治世の安定のために朱子学の理念を持ち込んで条令を発し、歴代藩主にもこれを受け継がせた。また、享保16年の凶作では御救米を領民に与え、餓死者を出さなかったという。将来を嘱望された名君だったが、惜しくも21歳で死去した。
その後、11代・光行が藩政を改革する。当時は老中・松平定信のもとで寛政の改革が推し進められていた。光行はそれにならい、1791年(寛政3年)に6篇の新御条目を配布する。これには大庄屋、町役人、惣百姓、惣町人、そして婦女の心得がそれぞれ記され、領民の指針となった。
また、藩校の崇教館を創設し、自分がふれた金言をまとめた『弘裕斎撰語』を著すなど、藩士の教育にも熱心に取り組んだ。
幕末は14代・光則のときに迎える。当初、戸田家は第一次長州征討に出兵、水戸浪士・武田耕雲斎の率いる天狗党を幕府の命令に従って討伐するなど、佐幕派の動きを見せた。
しかし、光則は譜代大名でありながら尊王派の考えの持ち主だったため、王政復古の大号令の後はすぐに新政府軍に恭順している。版籍奉還の後、光則は松本藩知事に任命され、その後を継いだ嫡男の康泰は子爵位を授けられている。