姫路藩酒井家の祖先は酒井左衛門尉家と同じく酒井広親で、その長男の氏忠(後に左衛門尉)から酒井左衛門尉家、次男の家忠(後に雅楽頭)から酒井雅楽頭家の系統がそれぞれ始まっている。
初代・重忠は家康のもとで、今川氏真の掛川城攻めや「姉川の戦い」に従軍した。また、「本能寺の変」に際しては堺を脱出した家康を伊勢国白子で出迎えている。家康からも信頼されており、徳川家が関東に入ったときに武蔵国川越藩1万石に封じられた。その後、「関ヶ原の戦い」での戦功から加増され、上野国厩橋藩3万3千石へ転封された。
2代・忠世は1590年(天正18年)、2代将軍・秀忠から家老に任じられ、父とはべつに5千石を与えられた。そこから何度か加増を受け、1616年(元和2年)には上野国伊勢崎藩5万2千石の大名になっている。翌年、酒井家の家督を継いで8万5千石の厩橋藩主となった。
忠世は土井利勝とともに老中となり、3代将軍・家光の後見役として幕政を取り仕切った。石高は12万2千5百石となり、3代・忠行の代には15万2千5百石に達する。
4代・忠清は忠行から10万石を受け継ぎ、残りは弟・忠能への分与と幕府への返上という形になった。忠清は1653年(承応2年)、老中首座に就き、1666年(寛文6年)には大老に任命されている。
絶大な権力を誇り、屋敷が江戸城大手前下馬札のそばにあったことから忠清は「下馬将軍」と呼ばれた。その屋敷には進物を手にした大名が詰めかけ、賄賂が横行したとされている。石高も加増によって15万石に増えていたが、5代将軍・綱吉の代になると大老職を解かれ、屋敷も没収されてしまった。
5代・忠挙は家督を継ぐ際、2万石を弟の忠寛に分与し、上野国伊勢崎藩の系譜を作らせている。忠挙も老中首座まで上り詰めたのだが、幕政よりも藩政に力を注ぎ、名君と呼ばれた。厩橋を前橋と改めたのも忠挙の代だとされている。晩年、領内の新田2万石が加増され、酒井家の石高は15万石に戻った。
その後、9代・忠恭が9代将軍・家重のもとで老中首座となる。この頃、領内は利根川の増水に悩まされており、忠恭は転封を願い出た。その結果、酒井家は播磨国姫路藩15万石に転封される。
12代・忠実の代は姫路藩の黄金期とされている。忠実は先代、先々代が残した事業を発展させ、姫路木綿や陶器、砂糖、藍、人参、蠟などさまざまな特産品を生み出して藩財政を再建した。また、城下に学問所を開き、領民の教育にも熱心に取り組んだ。
幕末、16代・忠績が老中上座に任命され、14代将軍・家茂の補佐を務める。この頃、藩内は尊王攘夷派と佐幕派とで分裂状態にあった。結果として尊王攘夷派が敗れ、脱藩を試みるなどした志士が次々に処罰された。戊辰の獄と呼ばれるできごとである。
忠積は大老にもなるが、家茂の死とともに解任された。続く17代・忠惇は老中上座として「鳥羽伏見の戦い」に臨むが大敗を喫し、江戸へ逃げ帰る。居城の姫路城は備前国岡山藩の軍勢に包囲され、やむなく新政府軍に明け渡された。
酒井家の家督は18代・忠邦が15万両の軍資金を新政府軍に献金することで、存続されている。版籍奉還の後、忠邦は姫路藩知事に任命された。