酒井家は数ある譜代大名の中でも最古参に数えられる家柄だ。
鶴岡藩酒井家はその中でも酒井左衛門尉家と呼ばれる名門である。初代・忠次は家康の父・松平広忠に仕え、広忠の死後は今川家に人質になっていた家康に仕えた。井伊直政、榊原康政、本多忠勝とともに「徳川四天王」と称された人物である。
2代・家次も父とともに家康の腹心として働き、下総国臼井藩3万石に封じられた。その後、「関ヶ原の戦い」を経て2万石の加増を受け、上野国高崎藩に転封される。このとき、左衛門尉の官職を与えられた。さらに「大坂の陣」での戦功が加わって5万石が加増され、越後国高田藩10万石へ転封されている。
3代・忠勝の代に信濃国松代藩へ転封、その後、出羽国山形藩の最上義俊が改易されたことを受けて、酒井家は出羽国庄内藩13万8千石の大名となる。同時に北方の外様大名に対する備えという役目も与えられた。
4代・忠当は父・忠勝の命により、弟の忠恒に2万石、忠解に1万石の新墾田を与えて分家としている。忠恒は出羽国松山藩、忠解は出羽国大山藩をそれぞれ治めることとなった(ただし、大山藩は忠解一代で断絶している)。
酒井家は藩政において善政を敷き、領民から慕われたといわれている。
1749年(寛延2年)、7代・忠寄が酒井家から初めて老中になった。当時、老中になった大名は領地を幕府に返上するという慣例があった。しかし、領民が酒井家による支配を求めて訴え出たというのだ。
他にも、9代・忠徳の代には天明の大飢饉が起こったが、忠徳が藩財政を立て直し、領民の救済を行なって、領内からは餓死者が出なかったという話がある。10代・忠器の代にも天保の飢饉が起き、やはり酒井家は領民の救済のために1万3千俵の米を費やした。この頃、酒井家は越後国長岡藩への転封が命じられたが、領民の抗議によって幕府が命令を撤回するという異例の事態も起きている。
13代・忠篤の代で、酒井家は江戸幕府の終焉を迎える。戊辰戦争では会津藩とともに、新政府軍による奥羽征討の最大目標とされてしまった。1868年(明治元年)、会津藩の降伏から間もなく、庄内藩酒井家も降伏する。忠篤は所領を没収され、14代・忠宝が新たに12万石を与えられて家督を継いだ。
忠宝は岩代国若松藩への転封を命じられたが、家臣や領民が留任を嘆願したため、まず磐城国平藩へ転封され、版籍奉還を経て磐城平藩知事に任命された後、多額の献金と引き換えに藩知事として復帰した。その後、庄内藩は大泉藩に改称されている。忠宝の隠居後、酒井家の家督はふたたび忠篤にゆずられた。忠篤は兵部省に入って陸軍少佐を務め、後に伯爵位を授けられている。