奥平家の宗家は美濃国加納藩を治めていた。初代・信昌は家康から長篠城を与えられ、長篠の戦いでは武田家の猛攻から城を守り抜いている。
その後も戦功を立て、家康が関東に入ると上野国小幡藩3万石を与えられた。信昌は最初の京都所司代に任命された人物でもあり、本願寺に潜伏していた安国寺恵瓊を捕えるという功績も残している。
信昌は家康の娘婿であり、信頼されていた。家康は東海道と中山道の分岐点に近い要衝・美濃国加納藩に信昌を転封し、石高も10万石に改めている。
しかし、奥平家の宗家は3代・忠隆の代で途絶えてしまう。以降、奥平家の宗家の家督は信昌の長男・家昌の血筋が継ぐこととなった。こちらの奥平家はこのとき、すでに下野国字都宮藩10万石を領有していた。
家昌の後を継いだ忠昌は1万石を加増され、下総国古河藩11万石に転封される。その3年後、ふたたび宇都宮藩へと戻された。
3代・昌能は、家臣が父・忠昌に殉死した件が殉死禁止令に違反することと、法要の際に家老同士が刃傷沙汰を起こしたことなどの責任を負い、2万石の減封と出羽国山形藩への転封を命じられる。しかし、次の昌章の代にはまたもや宇都宮藩へと転封され、3度目の入封となった。そして5代・昌成の代に丹後国宮津藩を経て1万石の加増の上、豊前国中津藩へ移り、ようやく落ち着くことになる。
奥平家は蘭学研究への援助を行なったことで知られる。7代・昌鹿は藩医の前野良沢を保護し、杉田玄白らとともに日本初の解剖医学書『解体新書』を刊行する手助けをした。昌鹿自身も賀茂真淵から国学を学ぶなど、学問に熱心だったとされている。
さらに9代・昌高の代には『バスタールド辞書』と『蘭語訳撰』という2つの蘭日辞典を編纂している。これらは中津辞書と呼ばれ、後世に伝えられた。
このような藩の方向性を受けてか、中津藩からは幕末~明治時代を代表する思想家である福沢諭吉が出現している。彼は、蘭学者の緒方洪庵が大坂に開いた適塾で学び、広い識見で幕末期から明治にかけて活躍した人物として有名だ。
福沢はアメリカやヨーロッパにもしばしば渡航し、近代的な思想を日本に持ち込んだ。一生、官位に就かなかったことでも有名で、官民の調和を目指して人材育成に励んでいる。諭吉の創立した慶應義塾は現在も大学として残り、著作の『学問ノススメ』も名著として語り継がれている。
奥平家は鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、すぐさま新政府軍に恭順した。版籍奉還の後、13代・昌邁が中津藩知事に任命され、後に伯爵位を授けられた。