初代・板倉重宣は板倉重良の長男として生まれた。しかし父・重良が病気を理由に廃嫡となり、重昌流板倉家を継ぐことができず、家督を継いだ叔父の重種のもとで養育される。
重宣は本来なら藩主を継ぐべき立場でもあったので重種の世子として迎えられたが、重種が武蔵岩槻藩6万石に加増移封された際、自らの息子である重寛を世子にするために重宣を廃嫡、これによって家中での争いが起こる。
重宣の母が有力者である備中岡山藩主・池田光政の姪であったこともあり、幕府の知るところとなり、重種は老中を罷免された(のちに信濃坂木藩5万石に減移封)。
1683年(天和3年)、幕府は重種の所領5万石のうち、3万石を重寛に、2万石を重宣に分割相続させ、こうして誕生したのが重宣流板倉家である。
重宣は上総高滝藩主として大名となったものの翌年死去したため、養子の重高が家督を相続した。
1699年(元禄12年)2月、重高は備中庭瀬藩に移封される。その後は11代172年間にわたり庭瀬藩主をつとめたため、重宣流板倉家は庭瀬藩主家とも呼ばれる。
7代勝資は1818年(文政元年)に藩校誠意館を創設して藩士子弟の教育化に努めている。
幕末の戊辰戦争では12代・勝弘が新政府軍に恭順し、一時は板倉家宗家の討伐にも向かっている。勝弘は版籍奉還を経て庭瀬藩知事に任命され、こちらも後に子爵位を授けられた。