井伊家は戦国時代、駿河国の戦国大名・今川家に仕えていた。井伊直盛は「桶狭間の戦い」で今川義元とともに討ち死にし、井伊家は一度、断絶している。その後、直盛の娘の直虎が出家していたものの還俗、女城主として家督を継承したものの、今川や武田、周辺勢力の干渉でたびたび領地を失っている。
譜代大名井伊家の初代・直政は、1575年(天正3年)、浜松城下で鷹狩りをしていた家康の目にとまり、小姓として取り立てられる。その後、家康の旗本として戦功を上げ、一軍団を率いる部将となった。この直政を養育したのが、叔母にあたる先の直虎であった。
直政は家臣の鎧、旗差物などを赤一色に染め上げ、「井伊の赤備え」と恐れられた強力な軍団を作り上げる。井伊家は戦場で家康から常に先鋒を任されており、後世まで「天下の先手」であることを誇りに思っていた。
家康の関東入りの後、井伊家は上野国箕輪城と12万石を与えられる。さらに「関ヶ原の戦い」では、石田三成の居城である佐和山城を攻略し、西軍総大将の毛利輝元を降伏させるなど、「第一の功臣」といわれるほどの戦功を立てた。
これにより、佐和山城と18万石を与えられ、近江国彦根藩を治めることとなる。
2代・直孝は直政の次男だったが、家康の命で病気がちな兄・直勝に代わって彦根藩主となる。直孝は「大坂夏の陣」で大坂城に突入し、豊臣秀頼と淀殿の自刃に追い込むという大手柄を立てた。この件と、西国・中国の外様大名を押さえながら京都を守護するという彦根藩の大役とが評価され、井伊家は大幅な加増を受ける。石高は譜代大名の中でも突出した35万石に達した。
直孝はその後、秀忠、家光、家綱と3代の将軍にわたって大老を務め、幕政の中心に立った。井伊家では直政・直孝に学べとの家訓まで生まれたという。
井伊家は譜代大名の筆頭格で、大老を出す家柄となった。直孝の後、3代・直澄、4代・直興、7代・直該(5代、6代と早逝したため、4代・直興が名を改めてふたたび藩主となっている)、12代・直幸、14代・直亮、そして15代・直弼が大老に任命されている。その一方で老中は1人も出ていない。老中という役職が、井伊家の高い家格に釣り合わなかったのだ。
井伊家の歴代当主の中でも特にその名を知られている直弼は、1850年(嘉永3年)に家督を相続した。彼は困窮する領民に15万両にもおよぶ金銭を配分し、仁政を敷いた。その様子は、高杉晋作や伊藤博文など、幕末を代表する維新志士たちに影響を与えた思想家・吉田松陰(後に安政の大獄で処刑される)が「稀代の名君」と称賛するほどだったという。
黒船来航に際し、直弼は開国論を主張して、水戸藩主・徳川斉昭と対立する。直弼は溜間詰の譜代大名たちの代表のような立場で、御三家と譜代大名の間に亀裂が走ることになった。
さらに13代将軍・家定の後継者問題でも紀伊徳川家の徳川慶福(後の家茂)を推し、一橋慶喜を推薦する一派と対立してしまう。
1858年(安政5年)、直弼は大老に任命され、幕府の実権を掌握する。すると、日米修好通商条約を無断で調印し、14代将軍を慶福に決め、さらに日米通商条約と英・仏・露・蘭との開港条約まで結んでしまった。これに異を唱えた徳川斉昭ら一橋派と、彼らに味方した改革派の幕閣は一斉に処罰され、全国的に関係者の大々的な取り締まりも行なわれた。「安政の大獄」である。
こうして独裁的な体制を作り上げた直弼は、水戸藩の過激派から激しい恨みを買い、1860年(万延元年)、江戸城桜田門外で襲撃され、殺害されてしまった。
16代・直憲の代、一橋慶喜が将軍後見職、松平慶永が政事総裁職にそれぞれ任命され、井伊家は10万石の減封の上、代々の名誉であった京都守護を罷免される。もはや幕府も井伊家も、かたむいた体制を立て直すことは不可能だった。
直憲は将軍家への恩に報いて戦うべきとの家臣の意見を退け、朝廷に帰属する道を選ぶ。鳥羽伏見の戦いから新政府軍に加わり、版籍奉還で直憲は彦根藩知事となった。1884年(明治17年)には伯爵位も授かっている。