小笠原家は清和源氏の血筋に当たる甲斐源氏・加賀美遠光の次男・長清が甲斐国の小笠原村に拠点を持ったことから始まったとされる。小笠原家は源頼朝に仕え、信濃国と阿波国に勢力を築いて鎌倉幕府の由緒ある御家人となった。そのうち、ここでは信濃に勢力を張った信濃小笠原家について紹介する。
鎌倉時代、室町時代と、信濃―小笠原家は戦乱の中をくぐり抜け、戦国時代には甲斐国の武田信玄とたびたび衝突した。
そんな中、小笠原秀政は一族が信玄に追われて流浪の身になっている頃に生を受けている。
秀政は徳川家の人質となり、岡崎城の石川数正に預けられた。数正は秀政を連れて豊臣秀吉のもとへ降ろうとしたが、秀政は徳川家のもとへと戻り、小笠原家を相続した。そして、家康の嫡男・信康の娘を正室に迎えて徳川家との血縁関係を得ている。
小田原攻めでは榊原康政とともに戦功を立て、下総国古河藩3万石に封じられた。ここは陸奥国に対するための、江戸幕府にとっての要衝だった。
「関ヶ原の戦い」を経て、小笠原家は2万石の加増を受け、信濃国飯田藩5万石へと転封される。その後、さらに3万石を加増され、先祖が治めていた信濃国松本藩へと移った。
1615年(元和元年)、秀政は子の忠脩とともに「大坂夏の陣」に出陣した。ところが、忠脩は大坂天王寺表で戦死、秀政もこの戦いの傷がもとで死去する。後継ぎはいまだ生まれておらず、小笠原家の家督は途切れてしまった。
そこで秀政の次男・忠真が家康の命により、松本藩8万石を相続して小笠原家の宗家となる。忠真はその後、2万石を加増されて、西国の外様大名に対する押さえである播磨国明石藩に転封された。
そして1632年(寛永9年)、小笠原家は豊前国小倉藩15万石に封じられる。同時に忠真の甥の長次が豊前国中津藩8万石、弟の忠知が豊後国杵築藩4万石、もう1人の弟の松平重直が豊前国竜王藩3万7千石を与えられた。
当時、九州には有力な外様大名が多くあった。幕府は腹心の譜代大名である小笠原家を送り込んで、それらを押さえ込もうとしたのである。小笠原家に課せられた責任は重く、それだけ徳川家に信頼されていた証でもあった。
このように重要な役割を任された小笠原家だったが、小倉藩2代・忠雄の財政はあっという間に行き詰まる。1708年(宝永5年)、前年の富士山の噴火により、幕府から多額の御用金を調達された上、火山灰で川底が上がった相模川の治水工事も命じられて、一気に出費が増加した。同じ頃、近隣の海域に密貿易船が出没し、小倉藩は福岡藩・萩藩と協力して軍船を出動させたり、遠見番所を設置したりと、こちらでも出費がかさんでいった。3代・忠基の治世には、享保の大飢饉が襲い、4万人もの餓死者が出たとされている。
5代・忠苗は、天災によって13万石を超える損害を出しながらも、小倉藩は勝手方の犬甘知寛の活躍で幕府から借財することもなく、逆に10万両もの貯蓄を成し遂げた。後に犬甘の政策に反対する騒動(小笠原騒動)が起こり、犬甘は獄死する。その屋敷には莫大な私財が貯め込まれていた。犬甘の政策は一見優れていたようで、実際には賄賂が横行しており、それによる政治の腐敗と、藩財政のために大坂や京都の商人から借り入れた金とがいっそう小倉藩を苦しめることになった。6代・忠固は家督を継ぐ際、幕府から忠苗の藩政不行き届きを叱責されているほどである。
9代・忠幹の世、長門国萩藩が下関海峡を通過する外国船を砲撃して攘夷運動の口火を切る。小倉藩は萩藩に共闘を持ちかけられるが、これを断り、萩藩と対立することになる。
萩藩は朝敵とされ、幕府は長州征討を開始する。小倉藩はその最前線基地となり、松平慶永の指揮のもと、熊本・鹿児島・中津・唐津・安志など諸藩の兵が集結した。しかし、萩藩は砲撃の報復として、イギリスなどの連合艦隊から下関を集中放火され、戦わないまま幕府に降伏した。
こうして一時は長州をめぐる動きも収まったが、長州藩の維新志士・高杉晋作の組織した奇兵隊が討幕運動を展開し、小倉藩には第二次長州征討が命じられる。しかし、小倉藩は熊本藩をはじめとする諸藩の協力を得られず、奇兵隊や萩藩の兵の前に返り討ちにあってしまった。折からの財政難も手伝って、小笠原家に戦う力は残っていなかった。
小笠原家は小倉を萩藩にゆずり渡すことで講和を結び、新政府軍に加わる。小倉藩は香春藩、豊津藩と名前を変え、版籍奉還を経て小笠原忠忱が豊津藩知事に任命された。忠忱には伯爵位も授けられている。
小笠原家は歴史が長い分、分家の数も非常に多い。播磨国安志藩、豊前国小倉新田藩、肥前国唐津藩、越前国勝山藩がそれぞれ、明治維新のときに小笠原家の分家によって治められていた。いかに徳川家が小笠原家を信頼し、さまざまな方面での活躍を期待していたかがよくわかる。