肥前国の松浦地方には、平安時代より嵯峨源氏の末裔が居住していた。これに本来は別の血筋である周辺諸族を含んだ松浦一族は、朝鮮・中国に近いという地理的条件から貿易商人・水軍(海賊)として発展、独自の勢力を有するに至った。南北朝時代になると一揆的結合を見せて「松浦党」となり、動乱の時代を乗り切った。
その後は再び諸家が独立割拠を繰り返したが、戦国時代にはそのうちの一家で峯氏の子孫とされる平戸松浦家が台頭し、ポルトガルやオランダ・イギリスとの南蛮貿易でさらなる富を獲得した。
秀吉の九州征伐に参戦して6万3千2百石の所領を安堵され、関ヶ原の戦いでは時の当主・鎮信が中立を保つ一方で嫡男・久信が西軍につくという二枚舌的な姿勢を見せたものの、戦後に処分を受けることはなかった。
4代・鎮信(初代と同名)の次男昌が1万石を分け与えられる形で平戸新田藩が成立しているが、これは独立した藩庁機構を持たない支藩である。
江戸時代初期には諸外国と幕府の交流の仲立ちに入るとともに自らも積極的に異国と関わり、貿易港としての平戸もさらに発展していった。しかし、幕府の鎖国方針に基づいてオランダ商館が長崎の出島へ移り、南蛮貿易の港としての価値を失った平戸は急速に衰退し、平戸藩もまた深刻な財政危機に陥ることになった。そのため、3代・隆信は検地や農政改革、俸禄制への転換といった初期の藩政改革の定番に加え、貿易港を持つ藩として他国商人の誘致による商魚業の活発化にも取り組んで、大きな成果をあげた。
5代・棟は荒廃する農村の復興に尽力する一方で、外様大名でありながら寺社奉行として幕政に参加するという異例の快挙を遂げたが、これは臨時支出が増大するということであり、藩財政を大いに困窮させることとなった。
そのため、以後の藩主は倹約・上げ米・荒廃した農漁村の復興・殖産興業などの藩政改革にたびたび取り組み、一定の成果をあげた。その中でも寛政の改革を主導した9代・清は学問好きで、20年にわたって書き連ねた随筆集『甲子夜話』で知られている。
幕末期には近隣の大村藩と「大・平同盟」を結び、国事への介入や他藩内部闘争の調停など、積極的に藩の外へ出て動乱と関わった。時の当主である12代・詮は当初公武合体路線を標榜していたが、やがて尊王・討幕へと意見を変え、藩論もまた討幕へと傾いた。
戊辰戦争へは軍制改革に基づいて洋銃を装備した銃隊を派遣している。