藤原氏の血を引く九州の名門・大友氏の一族で、要所である筑前国糟屋郡の立花城に拠ってこう名のっていた。しかし戦国時代には大友氏に背いた末に滅亡してしまっている。
その後、大友氏を支えた名将として名高い戸次鑑連(立花道雪)が立花城に入り、その婿養子・宗茂の代になって「立花」氏を名のるようになった。
宗茂は秀吉の九州征伐に際して臣従し、筑後国に13万2千2百石を与えられて柳川城主となった。この際の立花家臣団は戸次氏の譜代家臣。外様家臣・さらに大友氏によって付けられた与力武将といったバラバラな構成であったが、宗茂は豊臣政権の威光を利用して自らの地位を高め、彼らを支配することに成功した。
関ヶ原の戦いにおいては中央の戦いに参加したのち九州に舞い戻り立花城に籠もったが、ついに降伏することになった。しかし宗茂に対する徳川家康・秀忠の評価は高く、4年後には旗本に取り立てられ、さらにそれから2年を経て陸奥国棚倉藩1万石(のちに3万石へ)の大名となった。さらに大坂の陣でも活躍し、ついに筑後国10万9千6百石の大名として柳川城に戻ってきた。
宗茂の弟の直次の血筋も三池藩・立花家として残った。中央の政争に巻き込まれて一時期左遷・転封となったが、明治になって三池藩へもどっている。この間、三池領は柳川藩の預かりとなっていた。
特徴的な事業としては、有明湾の干拓がある。これは立花家の前にこの地の大名であった田中家が始めた事業を引き継いだものだ。立花家は開拓によって得られた新田への年貢をある程度免除するなどの政策によってこの干拓事業を成功させ、明治の頃には合計で24平方キロメートル強という広大な領域が田畑になった。
しかし、この開拓が最盛期を迎えた享保~延享年間は飢饉などもあって藩財政が大きく落ち込んだ時期でもあった。そのため、7代・鑑通は財政再建に奔走することになり、多方面にわたって藩政改革を行い、一応の成果をあげるに至った。しかし、その子である8代・鑑寿の時には保守派が改革派を数十名一気に逼塞処分とする事件(豪傑組崩れ)が起きており、改革も常に順調にいったわけではないようだ。
幕末期には「鼎足運転之法」、つまり藩が発行した10万両の藩札を預かった御用商人が藩の産物を買い付けて長崎で売り、その利益を藩に納める方法によって財政が大いに潤った。
藩札が特産物につぎ込まれて産業を育成し、その特産物を売却することによって現金が生まれ、これが藩を潤し……と鼎の脚のように三者が回ることからこの名がついた。ここから得た資金で軍備を充実させ、戊辰戦争においては新政府側に付き、兵を送っている。