米倉家は甲斐国米倉に拠点を置き、武田信玄に仕えていた家だ。「長篠の戦い」などを経て武田家が滅亡すると、徳川家に従うようになる。
初代・昌尹は5代将軍・綱吉のもとで若年寄を務め、下野国皆川藩1万5千石を与えられた。その後、分与などがあり、4代・忠仰のときに武蔵国金沢藩1万2千石に転封される。以降、転封や石高の動きはなく、米倉家は金沢藩の藩政に力を注いだ。
幕末、米倉家は幕府軍に加わり、2度の長州征討に参加する。また、横須賀製鉄所の警備や横浜取締方を務め、浦賀を監視して異国船の到来を報告するなどした。版籍奉還後、加賀国の金沢藩との混同を避けるため、六浦藩と改称して、11代・昌言が藩知事に任命される。のちに、昌言には子爵位も授けられた。