椎谷藩堀家は、越後国村上藩を治めた堀家宗家の支流に当たる。堀家宗家は10万石の大名だったが、3代・直定が7歳で死去したため、断絶してしまった。
椎谷藩堀家は宗家の初代・直政の五男・直之からつながる系譜である。直之の嫡男・直景が初代となり、2代将軍・秀忠に仕えて上総国苅谷藩1万石に封じられた。
その後、2代・直良のときに上総国八幡藩、3代・直宥のときに越後国椎谷藩へと転封される。直良と直宥はともに大坂加番を4度務め、以降、堀家は大坂加番を輩出する家柄となった。
10代・著朝のとき、天明の大飢饉が発生する。藩財政が困窮する中、著朝は年貢の過酷な取り立てを断行し、領民の猛反発を招いてしまった。
結果、天明義民騒動と呼ばれる20年にも及ぶ一揆が発生し、著朝は責任を取って隠居に追い込まれる。幕府は三河国西尾藩を治める譜代大名の大給松平家から直起を養子として送り、椎谷藩堀家の家督を相続させた。
ところが、直起は家臣を無礼討ちにし、駕籠の中で自害してしまう。椎谷藩堀家は混乱し、以降、2代の藩主は池田家、水野家という譜代大名の代表的な家から養子を迎えて藩政の安定を図ることとなった。
15代・之美のとき、戊辰戦争が勃発する。椎谷藩堀家は新政府軍に恭順したが、それゆえに水戸藩の脱藩浪士たちの標的になり、藩邸を焼かれるなどの被害が出た。
その後、版籍奉還を迎えて之美は椎谷藩知事に任命される。また、之美は新政府に願い出て、先祖が名乗っていた奥田姓へと改名した。之美から家督を相続した直紹は、後に子爵位を授けられている。