土屋家の宗家は上総国久留里藩を治めたが、3代で廃絶してしまい、分家の土浦藩土屋家が明治維新まで存続した。
宗家の初代・忠直は2代将軍・秀忠の近習として寵愛を受け、上総国久留里藩2万石を与えられた。その次男・数直が分家を興している。宗家は3代・直樹が幕府の命令をおろそかにしたため、領地を没収されて廃絶した。
分家は常陸国土浦藩4万5千石に始まる。数直は老中を務め、2代・政直も同じく老中となった。政直のとき、土屋家は駿河国田中藩へ転封となり、2万石を加増されて再度土浦藩へ戻った。
土浦藩は地理上、霞ヶ浦の治水や漁業と切っても切れない関係にあり、「霞ヶ浦四十八津掟書」などの御条目を作って領民を統制していた。
版籍奉還の後、11代・挙直が土浦藩知事に任命される。挙直は内務省御用掛兼勧農局事務取扱を務め、旧藩士が興した開墾事業に加わり、土屋牧場を経営した。後に子爵位を授けられている。