もとは近江国の豪族。出自は中原氏とも宇多源氏ともいうがはっきりしない。
六角家・京極家・武田家・浅井家と何度も主君を変えた末、藤堂高虎のときに豊臣政権で頭角を現した。彼は秀吉の弟・秀長に仕え、その家が断絶したのちは高野山に籠もっていた人物だが、秀吉の強い要請を受けて大名として復帰した、という経緯がある。
高虎は優れた統治者として、また築城の名人として知られ、経歴からも豊臣政権を支えるべき人物だが、実際には家康との関係が深く、関ヶ原の戦いでも黒田長政らとともに西軍の切り崩し工作に活躍。外様大名ながら家康・秀忠の篤い信任を受けて、幕府の支配体制確立や各地の築城、家康を神と祀った日光東照宮の造営や、秀忠の娘・和子を後水尾天皇に入内させる際にも尽力したことから、最終的に津藩32万3千9百5十石を所領とした。
この津という地域は古くは「安濃津」と呼んだことから、安濃津藩ともいう。
また、3代・高久が家督を継承する際、弟の高通に5万石を分け与えて久居藩・藤堂家を設立させている。途中で本家の嫡流が絶えたこともあり、たびたびこの支藩から養子が迎えられた。
津藩の特徴として、まず「無足人制度」がある。これは農村の有力者の中から選ばれたものに武具の所持を認め(特に身分の高い無足人は苗字・帯刀まで認められた)、平時には治安維持をさせ、有事には戦力として活用するものである。ある種の農兵、武士と農民の中間の存在だと思えばわかりやすい。もともとの目的は土着の半農半兵的な農民を懐柔し、藩の勢力に取り込むのが目的であったと考えられるが、江戸時代を通じてこのシステムは維持され、幕末の動乱期には実際に戦力として活用されている。
それからもう一つ、忍び衆(伊賀者)――忍者の存在も特徴的である。津藩の領内にある伊賀は諜報・工作技能集団としての忍者の居住地の一つであり、高虎はこの地に住む人々を懐柔して家臣団に組み込み、情報収集や治安維持などに活用したとされる。
9代・高嶷と10代・高兌の時期には、深刻な財政危機を背景に積極的な改革が試みられた。
高嶷の代には困窮した農民を救済するために領民から金を集め、それを無利息あるいは低利息で貸し付ける「切印金制度」を行った。ところが、次第にこの制度で得た金を資金源として金儲けに走るようなものも出てきて、さらに凶作が長く続いたことから制度自体にも無理が出てきた。結局、津藩は領民から借りた金について「百年かけて返す」とせざるを得なかったのである。
また、村々の所有する田畑山林を人数で分配する均田政策も推し進めた。これはもともと存在した「田畑はすべて公権力の持ち物であり、一時的な借り物に過ぎない」という価値観にのっとったもので、「農民たちが困窮しているのは一部の豪農ばかりが土地を独占しているせいなので、均等にしてしまえば解決するだろう」という理屈だった。しかし豪農たちにすればせっかく得た土地を取り上げられるなど黙っていられるはずもなく、激烈な反撥が返ってきた。結果として、3万人の一揆勢が津城に押し寄せる事件に発展し、藩は政策を撤回するしかなくなってしまったのである。
その跡を継いだ高兌は、改めて農民救済のための備蓄施設の設置や、財政の再建、二つの藩校の設置(有造館と崇広堂)などの多方面の改革に取り組んだ。
特に、儒教精神にのっとった改革を進めるにあたって、自ら普段は絹ではなく綿の服を着るなどして改革・倹約の先頭に立つ姿勢を示したこともあり、名君として讃えられた。
幕末の動乱期には保守派の上士層が主導権を握り、幕府・朝廷の双方と気脈を通じて「勤王佐幕」「公武合体」をかかげて、日和見的中立主義の姿勢で臨んだ。鳥羽・伏見の戦いには旧幕府軍として参加したのだが、突如として裏切ると新政府軍についた。
この際の津藩の振る舞いは、かつて「武士たるもの7度主君を変えねば武士とは言えぬ」と言い放った初代・高虎のそれとそっくりだとして、旧幕府軍から激しく憎まれたともいう。しかし、この裏切りが数に劣る新政府軍を勝利させた大きな要因であることは間違いなく、津藩は自身が生き残るために見事なタイミングで決断した、ともいえる。その後は新政府軍の先鋒として戊辰戦争を戦い、明治時代を迎えている。