秋元家の初代・長朝は井伊直政の斡旋によって御家人となり、5百石を与えられた。「関ヶ原の戦い」で上杉家を押さえるための正使を務め、その功績から上野国総社藩1万石に封じられる。2代・泰朝のときに加増の上、甲斐国谷村藩1万8千石へ転封された。
4代・喬知は老中に任命され、1万石の加増を受ける。さらに元禄大地震で破壊された各所を修繕する普請奉行を務めた功績で1万石を加増、武蔵国川越藩5万石へ移った。川越芋として知られるサツマイモの栽培を促進するなど藩政にも熱心で、1711年(正徳元年)にはさらに1万石を加増された。
その後、秋元家は出羽国山形藩を経て上野国館林藩に転封される。10代・志朝は水戸藩や宇都宮藩といった尊王派の藩と交流し、関東の尊王攘夷派の重鎮となった。
一方で幕府の会議に藩士が出席するなどしたため、幕府と新政府との間で板ばさみになり、軍資金や武器を供出することで新政府軍に従うことを許されたという。11代・礼朝が版籍奉還を経て館林藩知事に任命され、その養子の興朝が後に子爵位を授けられた。