三河国大給を拠点とし、徳川家に仕えたため、大給松平家と呼ばれる。
初代・家乗は家康の前で元服し、徳川家が関東に入った際、上野国那波藩1万石を与えられた。1601年(慶長6年)に1万石の加増を受け、美濃国岩村藩2万石へ封じられる。
2代・乗寿は大坂の陣で活躍し、奏者番から西の丸老中へと出世する。領国も遠江国浜松藩3万6千石、上野国館林藩6万石と拡大していき、1651年(慶安4年)には本丸老中に任命された。
3代・乗久のときに下総国佐倉藩6万石、続いて肥前国唐津藩7万3千石へと転封される。乗久は庄屋の世襲制を認可し、庄屋の役職を藩が任命するという先例を作った。以降、このやり方は他の大名の転封の際にも受け継がれるようになる。
5代・乗邑のとき、大給松平家は志摩国鳥羽藩、伊勢国亀山藩、山城国淀藩を経てふたたび佐倉藩へと、日まぐるしく転封される。乗邑は8代将軍・吉宗に信頼され、老中に任命されて「享保の改革」を手助けした。幕府の農政・財政に関しては最高責任者となり、1万石の加増も受けている。
しかし、吉宗が将軍職を退くと老中を解任され、加増された1万石も取り上げられて蟄居を命じられてしまった。
6代・乗佑のときの出羽国山形藩への転封は、乗邑に対する左遷のような意味合いもあったとされている。その後、三河国西尾藩へ転封となった。
7代・乗完は老中として、松平定信の「寛政の改革」を補佐する。藩財政に対しても同様の策を取り、倹約令を発して、藩士には上げ米(献上米の制度)を、町人には御用金を、農民には年貢の先納を義務化した。
8代・乗寛はその路線を引き継ぎ、藩士の俸禄の増手当を停止し、領民からの奉納金を5年間延期するなどしたが、芳しい成果は上がらなかった。
9代・乗全も老中に任命される。一時は老中首座・阿部正弘と意見が合わずに罷免されたが、大老・井伊直弼に信頼されて老中に再任し、「桜田門外の変」の犯人処罰には前面に立って活躍した。
乗全は藩での学問の向上に努め、西尾藩には修道館、江戸には典学館という2つの藩校を造り、済生館という医学校も創設した。幕府が講武所をつくると藩士を派遣し、軍制改革にも乗り出した。
10代・乗秩のとき、長州征討と戊辰戦争に直面する。譜代大名であり、何人も老中を輩出してきた大給松平家は佐幕か尊王かで大きく揺れた。しかし、徳川家の親藩である尾張藩が尊王に傾いたため、大給松平家も尊王派として新政府軍に加わった。
版籍奉還後、乗秩は西尾藩知事に任命され、その養子として家督を継いだ乗承が後に子爵位を授けられている。