間部家の祖である真鍋詮光は家康に仕えていたが、本能寺の変で討ち死にし、家系はそこで途絶えてしまった。その後、子孫の詮房が初代となり、間部家を隆盛させる。
間部詮房は猿楽師に弟子入りし、徳川綱豊(のちの6代将軍・家宣)の小姓として取り立てられた。間部の姓はこの頃、綱豊から与えられている。
綱豊の寵愛を受けた詮房は側役、両番役、奏者番格と異例の出世を遂げていく。綱豊が5代将軍・綱吉の世子となると、側用人から若年寄格に進み、6代将軍・家宣の代には老中次席に任命された。この間、石高は加増に加増を重ね、1710年(宝永7年)、上野国高崎藩5万石を与えられる。
詮房は新井白石を登用し、「正徳の治」と呼ばれる治世を展開した。さまざまな幕政改革が行なわれたが、家宣の寵愛のみでのし上がった詮房は、諸大名からかなりの嫉妬を受け、同席を拒まれるようなこともあったという。しかし、家宣の威光を背負う詮房の権勢は絶大なもので、誰も逆らうことはできなかった。
家宣の死後も、詮房は7代将軍・家継の側用人となり、権力を維持する。が、家継早逝後、8代将軍・吉宗の代になると問部家の勢いは一気に衰えてしまった。詮房は役職を解かれ、間部家は越後国村上藩へ転封される。
詮房の死後、間部家の家督は弟の詮言が相続する。翌年、越前国鯖江藩に転封となったが、間部家はこのときに城を取り上げられ、城主から格下げを受けた。しかも、当時の鯖江藩は寺社や他藩の領地が入り組む非常にやっかいな土地柄で、得られる収益はあちこちに分散してしまい、間部家の実収入は急激に減少することになった。
それからしばらくの間、間部家は苦しい藩財政を乗り切るために奮闘することとなる。
そして、8代・詮勝が久しぶりに幕政に関与する。詮勝は奏者番から寺社奉行兼任、大坂城代、京都所司代と順調に出世コースをたどった。京都所司代の頃には京都に初めて公衆便所を設営したと伝えられる。
天保11年、詮勝は西の丸老中に任命され、鯖江城の築城を許された。しかし、領民の救済が優先され、適した土地がなかったこともあって、結局築かれることはなかった。
詮勝は水野忠邦と意見が合わなかったため、一度老中を辞職している。その後、老中に復帰すると、今度は大老・井伊直弼に従って一橋派や尊王攘夷派を次々に処罰し、強硬策を推し進めた。
しかし、やがて井伊直弼とも対立するようになり、またも老中を解任されてしまう。桜田門外の変の後、詮勝は隠居を命令され、藩主の座も追われることになった。
幕末、水戸天狗党の浪士が鯖江藩内を通過したことで警備に駆り出されたり、藩士が薩摩藩邸の焼き討ちに加わったりというできごとがあったが、それ以降は間部家に目立った動きはなく、明治維新から版籍奉還を迎えている。10代・詮道が鯖江藩知事に任命され、その嫡男の詮信が後に子爵位を授けられた。