宇和島藩(うわじまはん)は、江戸時代に伊予国宇和郡(現在の愛媛県宇和島市を中心とする南予地方)を治めた藩です。藩の政治を行う役所である藩庁は宇和島城(別名:鶴島城)に置かれました。石高は当初10万石、後に7万石(隠し財産を含めると実質10万石以上とも)とされ、仙台藩主・伊達政宗の庶長子(正式な妻以外の女性との間に生まれた長男)の家系である伊達氏が、立藩から廃藩置県まで一貫して藩主を務めました。
藩の成立
宇和島藩の成立は、元和元年(1615年)に遡ります。それ以前、慶長19年(1614年)に、豊臣恩顧の大名であった富田信高(とみた のぶたか)が改易(領地没収)となった後、仙台藩主・伊達政宗の長男(庶長子)である伊達秀宗(だて ひでむね)が、大坂の陣での父・政宗の功績などにより、幕府から伊予国宇和郡10万石を与えられ入封しました。これにより宇和島藩が立藩され、秀宗が初代藩主となりました。
秀宗は、仙台藩の世継ぎにはなれませんでしたが、別家として大名に取り立てられた形です。しかし、仙台藩からの家臣や多額の借財(入封準備金として仙台藩から借りた)を抱えてのスタートとなり、藩政の初期は困難を極めました。
主な藩主と藩政
宇和島藩は、初代・秀宗から9代・宗徳まで、一貫して伊達氏が藩主を務めました。ここでは、主な藩主をご紹介します。
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伊達秀宗(だて ひでむね)
初代藩主。仙台藩から引き連れてきた家臣と、もともと宇和島にいた富田氏の旧臣などとの間で対立が起こり、藩政は当初混乱しました。特に、秀宗が入封時に仙台藩から借りた金の返済を巡り、家老の山家清兵衛(やんべ せいべえ)と対立し、清兵衛とその一族を殺害してしまう事件(和霊騒動、われいそうどう)が発生しました。この事件は藩政に大きな動揺を与え、長く影響を残しました。 -
伊達宗利(だて むねとし)
2代藩主。秀宗の子。父の時代の混乱を収拾し、藩政の安定化に努めました。検地(領地の測量調査)を実施し、家臣団の知行(給料としての土地)を定めるなど、藩の支配体制を整備しました。しかし、彼の時代にも、家老間の対立から藩が二つに割れて争う「吉田騒動(よしだそうどう)」が起こり、その結果、宇和島藩の支藩として伊予吉田藩(3万石)が分立することになりました(宇和島藩は7万石に減封)。 -
伊達村年(だて むらとき)
5代藩主。名君として知られています。藩財政は依然として厳しかったため、倹約を徹底し、藩の特産品である和紙の専売制を強化したり、櫨(はぜ、和ろうそくの原料)の栽培を奨励したりするなど、積極的な藩政改革を行いました。また、飢饉に備えて米を備蓄する「社倉(しゃそう)」制度を整備するなど、領民の生活安定にも心を配りました。藩校「内徳館(ないどくかん)」(後の明倫館、めいりんかん)の基礎も彼の時代に築かれたとされます。 -
伊達宗紀(だて むねなり)
8代藩主。幕末期に活躍した藩主で、「幕末の四賢侯(しけんこう)」の一人に数えられます(他は薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内豊信(容堂)、福井藩主・松平慶永(春嶽))。開明的な人物で、藩政改革を推進し、財政再建に努めました。また、西洋の技術導入にも積極的で、軍備の近代化(蒸気船の建造計画など)や、高島秋帆(たかしま しゅうはん)に学ばせた藩士による西洋砲術の導入、シーボルトの娘・楠本イネを保護し西洋医学を学ばせるなど、人材育成にも力を注ぎました。幕政にも積極的に関与し、公武合体(朝廷と幕府の融和)を推進しましたが、後に新政府側に協力しました。
藩の歴史と出来事
- 伊達家による統治: 藩主家が変わらなかったことが特徴ですが、初期には「和霊騒動」や「吉田騒動」といったお家騒動も経験しました。
- 財政難と殖産興業: 歴代藩主は慢性的な財政難に悩まされ、和紙の専売や櫨・鰯などの産業育成に力を入れました。
- 学問・武芸の奨励: 藩校「明倫館」が設立され、武芸では柳生新陰流などが奨励されました。
- 幕末期の活躍: 伊達宗紀のもとで、藩政改革、西洋技術導入が進み、幕末の政局で存在感を示しました。戊辰戦争では新政府軍として参戦しました。
藩の終焉
明治維新を経て、明治2年(1869年)には版籍奉還が行われ、藩主・伊達宗徳(むねえ)は宇和島藩知事となりました。そして、明治4年(1871年)7月14日、明治政府による廃藩置県(はいはんちけん)により、宇和島藩は廃止され、「宇和島県」となりました。
同年11月には、宇和島県は神山県(旧松山藩など)と統合されて新たな「松山県」となり、さらに翌明治5年(1872年)には石鉄県(せきてつけん)、明治6年(1873年)には愛媛県と改称され、現在の愛媛県の一部となりました。宇和島城の天守は現存しており、国の重要文化財に指定されています。
