三ノ丸と本丸を結ぶ通路で、平成3年度からの発掘調査によって、大きな城門の礎石やL型に曲がった石段、石垣の上へあがる広い石段などの遺構や、門や櫓のものと思われる、大量の瓦などの遺物が見つかりました。さらに、ここは数度の改築が行われており、現在の形が一度にできたのではないということもわかりました。平成5年度の石垣修理では、変化の最終時期を基本に、門礎石を加えて警備しました。
(現地案内板)
三ノ丸と本丸を結ぶ通路で、平成3年度からの発掘調査によって、大きな城門の礎石やL型に曲がった石段、石垣の上へあがる広い石段などの遺構や、門や櫓のものと思われる、大量の瓦などの遺物が見つかりました。さらに、ここは数度の改築が行われており、現在の形が一度にできたのではないということもわかりました。平成5年度の石垣修理では、変化の最終時期を基本に、門礎石を加えて警備しました。 (現地案内板)
前方の斜面は弱手口と呼ばれる、名護屋城に5つある虎口(城の出入口)のひとつです。搦手とは城の裏側という意味で、表側の天手に対する言葉です。城の守りを固めるために通路を屈折させた、典型的な喰違い虎口の形状をしており、瓦敷排水溝跡が見つかりました。現在は、ここ弾正丸東側とともに、平成3年度と4年度(1991~1992)に、石垣の緊急修理を実施、あわせて仮園路を設置しました。 (現地案内板)
崩壊の危険性が高かった二ノ丸西側で調査を行い、解体修理の基礎資料としました。発掘調査の結果、延長110mの西側石垣において、「合坂(あいさか)」と呼ばれる相対する石段を3箇所で確認しました。これらの合坂は、遊撃丸と同様に城の西側の防御を重視した配置で、兵の移動を容易にしていたことが窺えます。また、崩壊した石段の様子から、合坂は人為的にかつ徹底的に破却されていることがわかります。 (現地案内板)
豊臣秀吉は側室の広沢局らを召して、芝居・能・茶道にふけりましたが、それは主としてこの”山里”の一郭で行なわれたものと考えられています。山里丸は、上・下2つの曲輪よりなっており、ここ山里口は上山里丸に通じる虎口(出入口)の一つです。昭和62~平成元年度(1987~1989)の発掘調査により、門礎石・石段・玉砂利敷が新たに発見され、防御面を配慮した複雑な出入口であることが明らかになりました。 (現地案内板)
前田利家の陣跡からは、大型掘立柱建物の御殿跡、蔵跡、井戸跡などの居住空間に関する遺構のほか、小規模な掘立柱建物跡や手水右、蹲台、雪隠、池泉跡など、数寄屋空間に関連する庭園遺構が多く発見されています。徳川家康とともに明国の使節団をもてなした際の饗応の場として使われたほか、秀吉の来訪(御成)を受けるなど、利家の立場に相応しい意匠を凝らした陣屋であったことがうかがえます。 (現地案内板)
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