きゃみさん北条早雲が学問、武芸をこの寺で習ったと伝わっています。
| 機種名 | FUJIFILM FinePix A303 |
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| ISO | 100 |
| F値 | 2.8 |
| ホワイトバランス | オート |
| シャッタースピード | 1/294 |
| レンズ焦点距離 | 5.7 mm |
| フラッシュ | フラッシュ未発光、オートモード |
| 露出モード | 自動露出 |
| 露出時間 | 1/300 |
| 画像方向 |
北條早雲公と法泉寺
北條早雲こと伊勢新九郎盛時は、永享四年(一四三二)、備中国高越山城主伊勢盛定の子としてこの地に生まれた。備中伊勢氏は、室町幕府の政所執事を世襲した名族京都伊勢氏からの分かれで、新九郎も、のち、京都伊勢氏の一族伊勢貞道(貞高)の養子に迎えられている。応仁の乱のとき、新九郎は足利義視の近士となり、義視が伊勢に下向したときそれに従い、ついで義視から離れて駿河守護今川義忠に仕えている。のち、一時、室町幕府の申次衆になって中央政界で活躍したが、今川家の内紛を収めた功によって、義忠の跡をついだ今川氏親の重臣として駿河国興国寺城主となった。興国寺城は伊豆半島の喉元に位置しており、伊豆の情報が新九郎のもとに集まってきた。ちょうどそのころ、伊豆では、堀越公方足利政知が死に、あとをついだ足利茶々丸の政治に不満をもつ武士がふえ騒然としはじめていた。このとき新九郎は、氏親から兵を借り、明応二年(一四九三)、一気に堀越御所を攻め、またたく間に伊豆一国の平定に成功する。典型的な下剋上で、新九郎が戦国大名第一号とよばれるのもそのためである。さらに版図を相模にまで拡げ、一代で伊豆・相模二国の戦国大名となり、北條五代の基礎を作った。永正十六年(一五一九)、伊豆韮山城で八十八歳の大往生をとげている。新九郎は臨済宗に帰依し、京都の建仁寺・大徳寺で修行したこともあり、出家したとき早雲庵宗端と号した。法泉寺は、高越山城主伊勢氏が開基となって建立された伊勢氏の菩提寺で、若き日の早雲がそこで学問を修めたという伝承もあり、このたび、同寺境内に早雲の事蹟を綴る碑が建てられた次第である。
10年以上昔の攻城だったので記憶が曖昧です。
雨上がりなもので
後北条家の前身「伊勢氏」の菩提寺で早雲とその父の墓があります。
北条早雲が学問、武芸をこの寺で習ったと伝わっています。
法泉寺には北条早雲とその父・伊勢盛定の墓がありました。
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