五番門(ごばんもん)と土塀(どべい)
概要
五番門は、備中櫓の北側に位置し、天守曲輪(くるわ)への南側からの入口となっています。絵図によれば、この門は冠木(かぶき)門(屋根のない二本柱の門)と記されていますが、発掘調査では、主柱と控柱の痕跡が発見されているので、高麗(こうらい)門あるいは薬医(やくい)門であったと推測されます。備中櫓管理用の門として整備を行いました。
五番門の南側石垣は変形が著しく、崩落の危険性が高い石垣であったため、積み直しを行い、石垣の上には土塀を復元しました。土塀の外観については、絵図や古写真から、白漆喰塗仕上げ、瓦葺であったことがわかります。塀の高さは、宮川門付近を写した古写真や、三の丸の石垣に残る塀の屋根の痕跡等から、概ね七尺(約2.1m)程度と推測されました。塀の構造は「勘定奉行日記」の記事に、「二重塀」という語がみられることから、土塀の土壁を表側と裏側に別々設けて中を空洞にし、そこに栗石(ぐりいし)を詰めた「太鼓塀(たいこべい)」と呼ばれる構造で復元をしました。このような構造の塀の現存例は、金沢城の石川門表門が唯一の例です。塀の城内側には、控柱が設けられています。また、雁木(がんぎ)(石段)については、発掘調査により出土した最下段のものを参考に復元しました。(左上)五番門南石垣土塀(赤線部分。右隣は備中櫓。「津山絵図」より)
(右上)「勘定奉行日記」享和3年(1803)5月28日の記事。「下地一重之処も追々者元之如く二重ニ相戻し度」の記述(赤線部分)がみられる。
(中段左)太鼓塀の構造。二枚の土壁の間に栗石を入れている状況。
(中段右)冠木門枡形内に残る土塀の痕跡(矢印部分)。この場所には門番所があり、そこから東と南方向に延びた土塀が石段に取り付く。この土塀屋根の痕跡から、屋根勾配を4寸で復元した。
(左中段下)発掘調査時の五番門南石垣北面。著しく変形している。左は遺存する雁木の最下段。
(左下)五番門発掘調査の様子(北から)。豊島石製の排水溝を挟んで左側2石が主柱、右側2石が控柱になる。
例年ならここに出店がずら~と並んでいます。
例年だとここでイベントをやっていたと思います。
ポスターなどでよく使われる構図です。 表中門の途中東側の石段を登りきったところです。行き止まりなので見落としがちですが絶好の撮影ポイントとなっています。
令和4年7月31日までの工事のようです。
写真右が七番門(二重の櫓門)の櫓台で左側の桜の木が生えているL字型の櫓台が色付櫓台です。 色付櫓は復元模型では青色の壁の変わった櫓になっています。
令和4年7月31日までの工事のようです。
石段下が裏中門です。
櫓台下に草に囲まれ小石が転がってる長方形の箇所がありますが、実際の腰巻櫓台はここまで出っ張っていたそうです。 明治23年に腰巻櫓台が崩れた際、積み直されたのですが本来の出っ張りと高さを失ってしまったとのことです。
廃城後に登りやすく石段を増設していたようですが近年取り外して本来の姿に戻したそうです。 石段の一段、一段が高いです。
この一帯は岩盤を削りだして造成されたそうです。
この薬研堀と近くの厩堀は山名氏時代の遺構で津山城では一番古いものになるようです。
三の丸から二の丸の二つの櫓跡を撮影。 手前が長柄櫓で奥が昇櫓跡です。 写真の下はフェンスで石垣下部が隠れています。
はらみがあるように見えました。
石垣の出っ張りがあるところの上が塩櫓跡です。
手前の石垣上に肘櫓が、石垣と石垣の間の石段の上に裏下門がありました。
崩れたところを直していくのか、水を抜いているようでした。 ちなみに、この厩堀と近くの薬研堀は山名氏時代の遺構で津山城では一番古いものになるようです。
現在はトイレと駐車場になっています。
現在はトイレと駐車場になっています。
城南医院近くの石垣です。分かりにくい所にあります。
去年の夏ごろの写真と比べ工事の足場と、石垣上の木がごっそり無くなっているのがわかります。
津山城の東側には宮川を挟んで同じくらいの高さの山があるためそこからの攻撃に備えて本丸東側に天守台より高い石垣の防塁がつくられています。 この石垣の上には太鼓櫓などの櫓も複数ありました。
城下町の案内板です。
城下町の案内板
城下町の案内板
絵図ではこのあたりに侍屋敷があり水路があったようです。
絵図ではこのあたりに侍屋敷があり水路があったようです。
左奥に見える山は神楽尾城です。
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